「祈る俳句」というイベントで考えたこと

2018/3/20の火曜日に、「祈る俳句」というイベントを聴きにいった。

https://inoruhaiku.blogspot.jp/

詳細は上のリンクを見ていただければわかるが、俳人の上田信治と北大路翼の対談イベント。ぼくは上田さんの俳句を読んで、ひそかにファンだったので聴きにいった。歌人は少なくて、アウェーなかんじだった。

会場は梅田のPumpkin Rocksという、二次会場のようなにぎやかなところ。クラブクアトロの地下にある。短歌のイベントでもこういうとこでやってるのをあまり見かけないので、不思議なかんじ。屍派のひとたちは始まる前からストロングゼロを飲み、司会の中山さんは始まる前から出来上がっていた。

最初は正直、率直にいうと、「あ、なんか内輪の会に間違えてきちゃったのかも…」という感じの居心地の悪さや不安があったのだけれど、対談はおもしろかったし、お酒をおいしく飲みながら俳人の方と交流するのはよい機会だったとおもう。

それでまあ、懇親会もそのままそのお店ではじまり、司会に指名されたひとがしゃべっていく流れのなかでぼくも当てられたのだけど、対談の感想で思ったことを個人的に上田さんには伝えられたから(これは後述します)、北大路さんの対談中の発言について思ったことを言ったんだけど、みんなお酒飲んでて誰も聴いてなさそうだし、言えば言うほどのれんに腕押しな感じがしたので、ぼくの言い方が悪くなって失礼さが出たかもしれないな、といまもやもやしている。のでこの文章を書いている。

対談の中で、上田さんの「~かな」の使い方が変わっている、という話がでてきた。おそらく、〈新しい駅が夏から秋へかな〉とかのことなのかな、と思う。それを受けて北大路さんが「俺は日本語を侵せないから…」ということを言っていたのだ。

それで僕は率直に、「え、今まで対談であんなにセックスだのなんだの言ってて、日本語は〈犯せない〉の?」と思った。というかひとりでそれを思いついて面白くなった。そして面白いかなと思って言ってみたらまあスベった。(僕が悪い) スベり隠しに、北大路さんに「侵せない、とか言ってヒヨってちゃだめなんじゃないですか!」みたいなノリのことを言ったとおもう。(思い返すと恥ずかしい)

ただ、彼の作品を読んだ印象から考えると、むしろ「侵せない」のはよくわかるし、妥当だと思う。彼の作品世界は、日本語や文法が所与のものでなければ成立しない。それは彼の作品群が「北大路翼」という強烈な〈私〉のキャラクターと鏡映しの関係になっているからだとおもう。非常に短歌的な読み解き方だけど。アルター・エゴとして作られた「北大路翼」というキャラクターの肉声として俳句、という感じ。彼の句は非常に短歌的——それも、伝統と前衛の方法論を微妙にまぜた短歌——に僕には見える。北大路翼を演じることで彼の句が成立しているように見えるし、「日本語を侵す」のは北大路翼を演じるプログラムには含まれていないように見える。

で、上述した上田さんに個人的にお伝えした感想について。

対談では、「祈り」や「一回性」という言葉が出てきた。

「一回性」というのはややこしい概念で、一回かぎりのものがただ作品になる、ってことでもなくて。司会の方は「一過性」と言い換えていたけれど、「一回性」と「一過性」は全く異なるものだとおもう。

何らかのフィルター、たとえばそれは〈俳句〉でも〈短歌〉でも〈私〉でもいいんだけど、そのフィルターを物事が通過するときに、残らず流れていってしまうものは「一過性」のものだろう。そこで何かを捉えて、作品(作品じゃなくてもいい、記憶でも。)のなかに永遠性を持ったものとして残るのが「一回性」なんじゃないか。

そういう一回性というのは、何かに触れたときの心の動きとか、言葉の官能との出会いとか、いろいろなものにあてはまるのかもしれない。だから、写生とか写実とか、事実とか虚構とか、そういう枠組みを飛び越える概念として「一回性」はあるんじゃないか。「祈り」というのも、それを慈しむ姿勢として、似た位置にあるんじゃないか。

とりとめないけれど、そういうことを考えたのでした。(上田さんにお伝えしたものからはまた少し変化していますが…)

色んな人と話したかったけれどあんまりできなかったのが心残り。またこういう機会があればがんばりたい。

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