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領域の取り違えを解き放つ(2)

もう少し、これらの混線の瞬間の場面に立ち会っていこう。

そもそも、何が確からしい実体で、何が嘘で虚構なのだろうか?

視覚偏重の文化に毒されると、メタファとしての物語と現実との接点は、かたちだけを精巧に模倣するコスプレだ、とはき違える人がたくさんでてくるけど、本来はそういうことではないよね。

たとえば、空を自由に飛べる、というフィクションがあったとき、それは物理的にわたしたちがほんとうに空を飛べないなら自由でないという意味ではなく、あたかもそのような境地を、羽が生えていなくても、足で歩いていても感じることができる能力を呼び覚ます、というところが、フィクションの本懐だろう。

キネシス的思考の人々は、自由になるためには、本当に背中に羽が生えねばなれない、とほとんど強迫観念的に信じている。
その強迫観念的、儀式的な硬直した思考回路の外のおはなしがでてくることを受け入れることができない。

そんなものが世に実在する
ということを受け入れることができないのである。

だから、その頑なな身体の拒絶反応をやわらげ、
ワンクッションおくことで、
理性的にストーリーを理解できる

そのために、フィクションというものの意味があるとわたしは思っている。

殺人犯の気持ちは、実際に殺してみないとわからないものだろうか?
異性や、人種や、住んでいるところが違う人
立場が違う人の気持ちは
その人に実際になってみることは不可能だから、
理解なんてできないのだろうか?

その、お互いに理解するために、同じになろう
お互いに理解しなければならないから同じになれ、同調しろ
そういうやり方による人と人とのバインドは脆い。

そうではなく、それぞれの違った身体と心の連携があるなかで、
また違うひとたちのことを、まるで自分のことかのように理解する
そのために、メタファというもの、物語というものがあるわけだ。

そして、エネルゲイア的な人々は、
物語が終わって、部屋が明るくなったときに
「ああフィクションが終わった」と
また何事もなかったかのように戻ってしまうことはなく、
必ずその後に、前とくらべて変容がある。

あれはあれこれはこれ、ではない。だがこの種の世界が、
ものすごく世界から締め出され殺されかけている危機感がある。

メタファーがちがうと、一つの概念にちがう味わいが生まれるのがわかると思う。ある概念が直観に訴えるかどうかは、そのメタファーが実体験とどのくらいぴったりしているかどうかにかかっている。人間の心の非合理性に寄与する因子の一つに、身体的基盤のちがいから起こるメタファーどうしのぶつかりあいがある。
たとえば「それはまだ宙に浮いている」「その問題は落着した」というのは「君の言う意味がつかめた」と、身体的に矛盾がない。何かをつかめばそれを調べて理解できるし、ものは下にあるほうが空中に舞っているよりもつかみやすい。したがって「未知は上」、「既知は下」、「理解は把握」と整合している。しかし「未知は上」は、定位のメタファーの「いいことは上」あるいは「完了は上」(たとえば「それを仕上げる」という表現)と矛盾する。
論理は完了と既知、未完と未知が結びつくことを求める。しかし私達の経験はこれに同意しない。私たちは未知をいいとはみなさないし、「未知は上」を導き出す身体的経験と、「いいことは上」、「完了は上」というメタファーの基盤となっている経験はまったくちがう。このことから、自分自身と争う能力や、対立する信念を同時にかかえる能力が、これまた理性ではなく、身体的経験にもとづいていることがわかる。
(共感覚者の驚くべき日常―形を味わう人、色を聴く人 リチャード・E. シトーウィック  草思社 P292-293)

昨今メタバースといって、この身体的基盤を剥奪することで、自他の違いをないことにしてしまえ、という風潮がつくりだされているけれども、それはかえって、ほんとうの意味で他者と壁を築かずに理解し合える世界とまったく裏返しではないのか、と思う。

他者と壁を築かずわかりあえる、非結界の世界というものは、個としての心身の連携の特異性、というものを大事にしないと成り立たない。その身体感覚を丁寧に尊重して生きた結果、多義的な在り方にフラストレーションを感じずに捉えることができる、という非結界感覚、に辿り着ける。

わたしはそう思っている。



Photo by Julius Drost on Unsplash

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