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アンスクーリングと、愛(2)

巷における愛の概念は、

規範という蟹の甲羅にすっぽりと守られた中で生きている人が、

その中で「快い感情」を手にすることができる瞬間、

を指しているようにわたしは感じている。


群れは「みんなでひとつの大きな身体」だ。

群れの規範に沿って生きていると、

そこには個々のストーリーがなく、

ひとつの、誰のものでもないストーリーが、

死んだ状態で流れている。

ただ、その中にあるのは山と谷、起伏であって、

人は当然、この「山」=「吉」の要素が欲しい、と

「山」の要素の取り合いになる。


欲とは「谷が欠けている」と書く。

ひとりひとりが自分の山と谷を引き受けることが、

本来の喜びであり、愛のある日常そのものなのだけれど、

そもそも、群れで一体となって生きていると、

自分の山も谷も取り上げられている。

だから、際限なく、「山」を欲しがることになる。


その様子が、

スクーラー、な人々が脳裏に描く

・情による身内や仲間の甘やかし

・即物的な、身体感覚の快さ

という、

ストーリーをぶったぎった一部だけいいとこどり

という歪んだ愛の概念と相容れないことは

なんとなく想像ができるだろうか?



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