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本物の微笑みに触れる。


人間が病んでいくということの原因はただひとつ、

心身の連携がぶっこわれ、自分が大事にしていない、うっとりしない何かに対して、

人生の大事な時間や、自分の能力を捧げ続けてしまうということだとわたしは思っている。

このことは、ホリスティックな視点から心身をとらえれば、あたりまえな真実。


アンスクーリングにおける学びの核は、心身の連携に常に耳を澄ませ続けるところにあります。

そういう意味で、学校に行くことができなくなってしまった人(不登校)、社会との接点を失ってしまった人(ひきこもり)の方が、この心身の連携に従っている健康な人だ、ともいえると思います。

自分が今「!」と感じたことにかかわる。

このことのいちばん根っこの在り方は、身体の欲求に沿ったリズムで過ごすということ。

玄米菜食を提唱した桜沢如一も、「本能」がぶっこわれていなければ、すべてがきちんとおさまっていく、と説いていたけれど、

そういった意味での、質の高い本能というものをキープする、

このことを、親自身も模索しながら歩む、それがアンスクーラーだなぁとわたしは思っています。

親自身、大人になるまでに、本能は悪いものだと抑圧されたり、矯正されたり、無機質な社会に合うように「努力」してきた結果、どこかしらぶっ壊れてしまっていることがほとんど。

だから、子どもに対して「これが本来の在り方だから真似しなさい」という教師の役割が果たせないのはあたりまえ。

ですが、そんなことはしなくていいのです。

アンスクーリングに「教師」と「生徒」という支配被支配関係はありません。

本能に沿って生きるということがいかに人としてナチュラルであり、安全で満ち足りた世界なのか。

そのことの、ある意味プロなのは、実は子どもの方なのです。

だから、「質の高い本能」を目指し、日常で体現しようとするとき、教えてくれるのは子どもの方。子どもの発する、メッセージやシグナルを、勝手に決めつけず、

「あなたが今望んでいることは何?」

「それはどういう意味なの?」

「どっちの方がしっくりくるの?」

といった問いを投げかけながら、子どもとピュアなコミュニケーションをとりつづけること。それをつみかさねるうちに、大人の方もいつのまにか、心身の連携が取れた在り方が上手になってきます。

うまくやれたかどうかは、子どもがにっこりと、心から満ち足りた微笑みを向けてくれるからすぐにわかります。媚びるように微笑む様子と質が違うのですぐにわかります。

その、本物の微笑みに触れることは、質のよい本能とは何か、の道標だとわたしは思っています。

本物の微笑みは、心身の連携が取れている人にしか起こりません。

目の前の子が

ほんとうに「にっこり」

するとき、大人の内に住んでいる小さな子も、一緒ににっこりしている。

そういう∞な関係が、アンスクーリングなのです。


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