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一神教ではなく、二神教じゃないの?②

力の神と、力の圏外の神の対比、ということをもう少し続けていきたい。
もう少し言葉をずらすなら、力と愛の混線を解除するということといえるだろう。

多くの人は、力にあやかったときの多幸感を、愛の喜びだと勘違いする傾向にある。だが、その恍惚とした感覚、陶酔の喜びは、愛とはまた異なっている。

エーリッヒ・フロムが、チームワークは愛ではないと言う。日本人は、このチームワーク的なこころよさ、というものを愛と勘違いしたまま一生を終える人が大半ではないかと思うのである。

チームワークが愛ではない理由は、チームで目的を達成することで力が手に入るからである。分業し、高速にし、苦手な事を補い合うといえば聞こえがいいけれど、たいてい、責任をうやむやにして宙に浮かせ、その浮かせたエネルギーのとばっちりが、ロシアンルーレットのように、あるひ唐突に誰かひとりだけに襲い掛かる。

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社会は非常に博打的なのだ。
この連載の最後に、ワクチンと博打についての考察をするが、博打というものの本質を知れば世の謎はかなり解けていく。パチンコや競馬に入り浸っていなくても、チームで動き成り立っている社会は、平常時から非常に、その存立基盤が博打的なのである。ギャンブルを悪く言う風潮は、この平常の社会がいかに、賭博的な構造なのか、から注意をそらすためではないかとすらわたしは思っている。力の神は、ギャンブルは悪だが、社会はこんなにも真面目で正しい、と言うことにしておきたいらしい。

キネシスからエネルゲイアへ、各論において、ヨウ素を軸にタイムラプスについての話をまとめたが、ラプスをありがたがり、良いものとして扱うのが社会であり、自然は、ラプスを基本的に良いものとは捉えていない(というか、あからさまに、ラプス的な状態が、そのまま命をアポトーシスしていくことである、ということにてらいがない。)

このことは、ラプスが、ユダヤ教のラビと、同じ源につながってくることからもわかる。ユダヤ教的な、力礼賛の世界は、ラプス(エンデがいうところの灰色や虚無)を崇めているわけだ。

病の再発は、英語でリ・ラプス(relapse)と綴るが、まさに、物語が欠ける、物語を喪失する、ということをふたたびやらかしているね、という象徴的な元型イメージといえるのだ。

この、日常にとてもやらかしがちな「ラプス」だが、みんなたいてい、それがラプスであると意識すらしていない。

そんな瞬間についてメモしてみるとこんな感じだ。

たとえば所作が乱暴な子どもがいたときに、陶器やガラスの食器を使わせたら、落として割ってあぶないから、プラスチックの食器を使わせると安全でみんなハッピーですね、という話をよく耳にする。
だが、それで「安全」を手にしたときに、何を得て何が損なわれるのだろうか?

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これは、乱暴な子どもに手を焼いたときに、部屋が広く、自然あふれる環境を空間デザイン的な解決として用意することは、はたして良いことなのだろうか?という問いでもある。
空間デザインが優れていれば、乱雑さにまかせておもちゃを放り投げたり、お菓子を散らかしたり、乱暴にふるまっても、確かに迷惑がかからない。

だが、そういう乱雑さをコントロールせずにすむ、ということには、光と影があるはずなのだ。
大好きなお皿が割れて悲しい思いをしたり(その割に、大事に扱わないから割れたりするのだが。まあ、どんなに気を付けていても割れることもあるが)、乱暴にふるまったことで自分が痛い目に遭う事は、物語の裏も表も自ら味わうことができる、宝のような瞬間ではないか。
なのに、多くの人は、物語がただしく紡がれたときに、その部分が気に入らないとごね、運が悪い、悪魔の仕業だ、などと定義づけ、気に入らない物語を切り離し、外へ締め出そうとするのだ。

デジタルに、不快さを補えるということの不快さ、と書くと禅問答のようだ。嫌な気持ちがあっても、心地よくなる周波数の音を「注入」すれば、記憶が消されてすぐに、安全に気分がよくなり、ストレスが解消されますよ、という技術はすぐに実用化されそうではないか?というか既にもう実用化されているといえるだろう。
商業空間や、テレビ番組などで、TPOに応じた音楽が流れている、あれだってソフトな、同じ意味合いでの技術だ。
一時期、ある周波数が健康に良いといって、周波数にこだわったヒーリングミュージックが流行ったけど、あれも用い方によっては、人を昏睡させるとわたしは思うのだ。 
世界的に解禁の方向に向かっている「大麻」に関しても、解禁されてもわたしはあまり頼りたいとは思えない派である。なんというか、快楽や喜びというものに対してデジタルであり、無責任ではないか?と思ってしまう。いくら他のケミカルなものと違い、副作用がないですよと言われたところで、そういう次元の問題ではなく、外から借りてきて心地よくなる、という「銀行型」「果実主義」の快楽構造そのものではないか?

ウィキによると、大麻は固形の状態で流通するらしい。
ヘンププラスチックというものが開発されるくらいで、その性質としては非常にプラスチックやゴムに近い。キネシス的な魔法の必須アイテムである「なんでもくっつける」という性質どまんなかだ。この話は、プラスチックは便利だが、あまり好きではない、という身体感覚を直観的にもっている人には説明が不要だろう。
スピリチュアル関連で、人類の進化、覚醒がうんたら、という話と大麻が絡めて語られる時、わたしはそれは違うのではないかと思う。経済偏重な社会を批判するのは誰にでもできるが、その解決として、同じゴム構造に依存するのであれば、自分たちが批判している対象と何も質的に変わらないのではないかと。

おうし座に象徴されるような、物質的な自然の豊かさに甘えてどうにかなる、ということが許されない時代だ。その代わりに、沈黙して多くを語らない根源的な神は、眩しさにめがくらんで見えにくくはあるものの、ほんとうの愛と優しさをたっぷりと隠し持っている。否、隠されてはいない。ただ、
力の眩しさに目が眩んで気づかないだけなのだ。

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