見出し画像

「真の名」と黒い魔法②

その「真の名」について考察されている箇所を引用してみたい。

たとえば、誰でも何かわけもなくイライラするときがある。そのわけがわからぬ限り、なかなかそのイライラは治まらない。よく考えているうちに、昼休みに同僚と雑談したときからイライラがはじまったことに気づき、なおも考えていると、その同僚が自分の友人で株で大もうけした人がいた、と言ったことがきっかけらしいとわかってくる。自分はお金など人生ではあまり大切でないと割り切っているのに……と不思議におもっているうちに、自分の父親は「世の中はすべて金や」と口ぐせのように言い、それに強い反発を感じていたことを思い出してくる。
このあたりまでくると、父親が死んでから長く経つのに、いまだ父親の言葉にこだわっていることや、お金のことは割り切っているなどと大きいことを言っていても、やはり気にしているのだな、ということに気づいてくる。
このようなことを考えているうちにイライラも治まり、仕事に集中できるようになる。つまり、感情の「イライラ」として捉えていたことの「真の名」がわかってきたので、自分の感情を「支配」できてきた、というわけである。
実のところを言うと、それは「真の名」かどうかわからないのだが、真の名に近いあたりを知っても、相当に効果があるということであろう。われわれは自分でも後で考えるとわけのわからんことをやってしまったりするが、自分の「真の名」を知っていると、自分で自分をコントロールできるのであろう、、と、こんなことを考えてみると、魔法使いの話もだいぶ了解しやすくなる。

ファンタジーを読む 河合隼雄 講談社プラスアルファ文庫 P323-324

こうやって書いてしまうと「なーんだ」と言われかねないのだが、当人にとって、名前が判明するまでは、なーんだどころか、一大事なのである。

人は、真の名を直視する勇気をもたないことが多い。
その勇気がないひとたちに、社会はとてもやさしい。
これは、ありとあらゆる商売というものの根底に流れる、力の世界のセオリーとも言えるかもしれない。

社会は、愛を知らない人が、それなりに、愛に似たもので自分をごまかして楽しく生きるために、愛から逃げ回るためにはどんなことでもやる、という人たちが一丸となってつくりあげた幻想だと私は思っている。

社会は、愛の圏外で生きている人に、生ぬるい優しさで包んでくれる。しかし、それは、気休めにはなっても、決してほんとうに満足はさせてくれない。なぜなら、ほんとうに満足すれば、経済へ奉仕する共依存から脱してしまうからだ。

この依存関係へ奉仕してくれるひとたちだけが、正常だと定義している社会。そんな社会に「あなたは健康です」と言われたいか。

そんな禅問答みたいなことを時々考えてしまう。

Giorgio de Chirico
Melancholy and Mystery of a Street, 1914


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?