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2019年、現在地メモ。

最後にここに書いてから、もう3年もたっている。

長いような短いような、そしてそのあいだに

めまぐるしく環境がかわり、それはまだ続いている。


アンスクーリング・ホームスクーリングというと、

時間的制約から主婦層が中心になっていると思う。


だがわたしはそういった、

外側の物理的容易さによってやりやすいかどうか、

ということだけでアンスクーラーかどうかは決まらない、

本質的な意味でのアンスクーラーらしさ、

を見据えていたいと思い、

この3年間過ごしてきた。


今日は会社の同僚に別件で「ロハス(笑)」

と失笑されたが、

わたしにとって表層的な自然派も、嫌いなのである。

そこに陥らないようにすることと、

真の意味でのアンスクーラー魂を極めることは似ている。



人はどうしても、おかれているライフスタイルによって、

感じ方や考え方が矯正され、思考停止しがちである。


奴隷的なスケジュールに追われた人が、

その「物理的な限界」によって、

あるところからアンスクーラー的話が

まったくできなくなる、というのは無理も無いのである。


アンスクーラー魂をすっと理解できる暮らしに在る

ということの稀有さ、贅沢さについていろいろ考えた3年だ。


だが、だからこそ、金持ちの特権、という風に見做すのも

違うと思っている。


このあたりの話を丁寧にしていきたい。


そもそもわたしが、アンスクーラー的時間の使い方を

失ったきっかけになったのは、

魂を売る働き方・魂を売る生き方だけはできない、

と心底思ったからで、

そのことにより、一時的に時間の使い方としてかなり

不本意な働き方になっている今、

こうしかなかったと思っている。


私自身が「これだけは譲れない」ということを守り抜く過程で、

アンスクーラー的な時間の使い方を大幅に失い、

2018年2月から現在まで、

東京で仕事に追われている。


今の暮らしをこれでいいとは思えていないが、

ここに至るまでの経緯について、悔いはない。


「かたち」として、

わかりやすく美しいアンスクーリングライフを失った代わりに、

もっと本質的なところでの理解を深めたと思っている。


そのあたりの、言葉にしにくいエリアを、

少しずつ書いていきたい。


そう、これは子ども向けではなくて、

大人向けです。

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