「何者か」を目指すことへの違和感、そして、らしく生きる
新しい年が明けて、もう10日。
去年は、自分も体に異変があったし、親も体調を崩してしまった。厄年を実感していたわけだけれど、なんてことはない、ただそういう年齢になったということだ。
だからというわけではないけれど、人生に対して、刻一刻、さらさらと残りの砂が落ちていく砂時計の様をぼんやりとイメージするようになった。
「やりたい、やらなきゃ」と思っていると日々はあっという間に過ぎてしまう。
noteでもアウトプットを磨いていきたいと思いつつ、思考の整理をしきれないことで下書きばかりが溜まってしまった去年。
今年は「思考する」こと、ここでアウトプットすることをさぼらずにやっていく(宣言)。
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1つの例として。
去年、改めてTwitterを始めてみたのだけれど、何回か投稿した後に「やっぱり自分には向いてないな...」と思い、ろくにフォロワーも増えないうちに離脱してしまった。一応アカウントは残っているけど今はほぼ見ていない(noteの告知用には使います)。
情報が早くて多いことは良いのだけれど、自分にとっては不要なものも多く時間を無駄にしていると感じたこととか、ネガティブな言葉が多いこととか、そう思った理由は色々ある。
でも一番違和感を感じたことは、
「みんなが何者かになろうとしすぎてるなぁ」と感じたこと。
アカウント名しかり、プロフィール欄しかり。競うようにフォロワーを求める様子しかり。
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独立してから特に、色々な人から心配されたり、アドバイスを受けたりする。
それは自分から乞う場合もあるし、逆に一方的にもらうものもあるけれど、SNSの存在も手伝って、「世に認知されること」を促されること、そしてそれを成功と定義している人は多い。かつ、その「認知」とは、「自分が知っている世界で名前が広がっている状態」を指す。
(自分の知っている世界なんて本当に小さいものなのだけど、それを無意識にすべてと捉えている人は意外と多い)
例えば自分のポジショニングを明確にすることとか、唯一無二でキャッチーな肩書をつけることとか、自分の名前で生きていくのであればどれも必要なことで、その意義はわかる。
ただ、それもあくまで一面的な要素であり、「何者かになりたい」「認知されたい」という意識は、結局は他人の評価を軸にして、自分の価値を決めることを他人に委ねているとも言える。
すべてを否定はしないけれど、そういうものを軸にすると、本来必要のない疲弊や焦りに襲われる。
そのような評価にとらわれずに、まずは自分が気持ちよくいられるということを大事にしたい。
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自分の仕事について聞かれるので説明をするのだけれど、領域に縁がなさすぎてピンとこず、「で、あなたは結局何をしている人なの?」と何度も言う人がいる(説明の仕方が悪いのでは?というのは一旦置いておいて)。
こういう時に、もっと自分が認知されていればちょっとは違うんだろうなあと思いつつ、「自分が知らないこと」を排除したり理解を示さない人は一定数いるわけで、「まあ、わかってもらわなくてもいっか・・・」とあまのじゃくな私は思うわけです。
独立直後は、誰にでもわかる説明ってどうしたら良いんだろう?って考えたりしてたけど、今はみんなにわかってもらう必要はないなあと思っている。
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「個の時代」と言われて久しいけれど、それって「ひとりで生きられるように、みんなに認められるように努力しましょうね」ってことではなく、周囲に惑わされやすい時代だからこそ、自分が気持ちよくいられる世界がどこかを一人一人が理解して、自分を大切にする時代ってことではなかろうか。
何かの本で読んだけど(確か、「天才を殺す凡人」だったかな)、いわゆる天才型の人は主語を「世界」とか「世の中」とするんだそうな。
私は天才にはなれない普通の人間なので、そういうところを目指す・つまりわかりやすい「何者か」を目指すことはせずに、自分と、半径3メートルくらいの距離で触れるひとたちのことを大切に。自分が本領発揮できる場所を見極めたい。
2020年はそういうちょっとした違和感を無視しないで、自分なりの視座と視野、そして評価軸を持って、飄々と生きていこうと思います。
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