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諸行無常の渋谷駅、スクランブル交差点に見る人生の縮図、母の人間としての側面を思う【雑記】

昨日は所用で母と一緒におり、夜の渋谷を歩いてました。青山方面からヒカリエ通ってスクスクを抜けて駅の中へ。

渋谷の街はもうずーーーっと工事してますね。古い記憶では、現ヒカリエの場所にあった東急文化会館(五島プラネタリウムがあった建物)を解体するあたりからだから、記憶の渋谷駅は30年ぐらいずっと工事中。実際はもっとなのかな?

大人になってすっかり人混みがダメになってしまって、気軽に渋谷に来ることは無くなったのだけど、90年代の学生時代はずっと渋谷で遊んでましたし、渋谷という街のエネルギーはいつでも大好きです。我が社の登記も場所も渋谷区ですしね。

1996年頃、現ヒカリエの宮益坂出口のあたりにマネケンワッフルの日本1号店ができたのとか、毎週ライブ行ったり毎晩クラブ行ったりとか、ついこの間のことみたいに思い出せます。10年前(2014)なんて昨日のことのようです。

いつも思うのですが、渋谷スクランブル交差点は人間交差点、人生の縮図みたい。上からぼんやり眺めていると、いつだって不思議な気持ちになります。これだけ沢山の人と袖振り合いすれ違うように出会って、その中から深く関わる人(動物含む)がいて。その人との学びが終われば袂を分かち、また自分の道の前方を見て歩き出して。人生はその一瞬のきらめきの繰り返しなんだね。長くずっと共にいる人いた人は例外なくソウルメイトでしょう。

母には母の渋谷があって、彼女は30代の後半から定年まで勤めた会社の本社が長く渋谷にあり、90年代00年代はまるまる渋谷に通勤していた人です。なもんで、渋谷は私の庭よ、くらいの感じです。彼女は人生半ばに大きなアクシデントがあり、36歳の時に旦那さんを突然死で亡くしています。それまで家事と子育てが専業、当時13歳10歳3歳の子供達、だいぶ強烈な義両親と義親族、故郷は東北にあり近くに親戚もおらず、よく人生を放棄しなかったなと感心します。

片親家庭のいたらぬ点やままならなさを思春期が重なった上の娘たちに批判されたり、色々なストレスが祟って原因不明の難病になったり(寛解しました)、途中けっこう大変そうでしたけど、正社員で定年まで勤め上げました。その状況でも家はいつも片付いてたし、ご飯も三度三度ちゃんと作って、子供3人とも都立高校通いで毎日お弁当も作っていました。全員立派に育ってくれたのでもう何も言うことはないそうです。子供ら本人達から見た自分達の出来はどうあれ、彼女がそう思っているならそうなんだと思います。

子供達を連れて田舎に帰るという選択もあったんだろうけど、それをしなかった。もしそうしてたら娘の私の人生も間違いなく今のようにはなっていないだろうな。私は彼女のことを母としての側面しか知らない。父が亡くなってから30年以上、片時も肌身離さず結婚指輪をはめている。ひとりの女性としてはどんな人生だったんだろうか。元気なうちに一度ゆっくりインタビューしてみたいと思います。おわり

2014年の渋谷駅、ヒカリエの上階から撮影

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