月日は百代の過客にして行きかふ年も又旅人也

 タイトルの入力変換にも手間取りました。“奥の細道”はもはや古すぎるということなのでしょうか。
 どうも、文音です。

 最近noteが毎月下旬になると“今月も書きなさいよ”と急かしてくるので何となく書いてます。
 タイトルの通り、月日は通り過ぎる旅人のように速足で過ぎていきます。
 咳をしても一人
 そんな句が脳裏に浮かぶほどベッドの上で過ごす日々はどこか乾いています。
 体調は相変わらず。
 あと十日もすれば四十代最後の年を迎えるというのに結局惑ってばかりだったように思います。
 四十にして惑わず。
 春秋時代の中国に孔子という学者(思想家と呼ぶ人も哲学者と呼ぶ人もいますが彼の成したことを鑑みて儒家と呼ぶ人もいます)が著した“論語”にある一節です。

吾十有五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑はず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順(したが)ふ。
七十にして心の欲する所に従へども、矩(のり)を踰(こ)えず

 春秋時代と言えば紀元前。2500年くらい前の人物です。
 その時代に七十まで生きるとはすごい……とまず考えますが、当時の平均寿命はどうだったのでしょうね。
 彼によれば、来年の今頃には天命を知ることになるそうです。
 天命って何でしょうね。
 なんであれ、私は私にできることを私にできるだけやることしかできなさそうです。

 旅に病んで 夢は荒れ野を 駆け巡る
 こちらは芭蕉の句ですが、体調を崩してからこの句が頭を離れません。
 ここ数年、あちらこちら行きました。6年あまりで3度の引っ越し。離婚。長患い。ストレス指数はMAXなのではとも思う日々です。
 悪いことばかりでもありません。いいこともたくさんありました。何より人の温かさにたくさん触れました。
 それでも、ふと寂しさを感じるのです。
 何を成したか、何を成せたか。何を遺せたか、ただの残骸か。
 咳のし過ぎで暗くなる視界の中、このまま逝くのではと思うたびに。

 嗚呼、でもまだ逝けません。
 何を成せなくても、何も遺せなくとも。


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