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 濃い霧の立ちこめる朝だった。
 森の奥からはカッコウの鳴く声が聞こえる。外界と隔離された学園は、ひっそりと静まり返り、生徒たちは未だ暁の夢のなかにあった。
 白いもやがかかった景色に溶け込むように、近藤(こんどう)多希(たき)は一人、校門前にたたずんでいた。
 夏前だというのに、肌にしんしんと寒さを感じる。彼女は制服の上から紺色のカーディガンを羽織り、小刻みにその場で足踏みを続ける。
 寮長からは、別に迎えに出なくてもいいと言われていた。時間が時間だし、聞いたところによると、あまり他人と打ち解けるタイプではないらしい。しかし、卒業までルームメイトになるであろうその転入生と最初に挨拶を交わすのは自分でなければならないという使命感が、彼女の足をこの場所まで運ばせた。

「遅いな……」
 腕時計を確認し、呟く。
 すでにハイヤーは駅を出ているはずだから、そろそろ到着してもいい頃なのに。
 多希は『私立双魚(パイシーズ)学園』と校札が取り付けられた門柱に背中を預け、軽く息を吐いた。
 それにしても、何から何までが異例な転入生だった。そもそもこの学園は、非常に特殊な制度を誇っているため、滅多なことでは中途入学を認めていない。編入試験の厳しさは、東京の一流私立高校を遥かに凌ぐと聞く。更に両親の社会的立場、経済状況、本人が過去に獲得した資格やプライズまでもが精査される。ただ頭が良いだけ、スポーツができるだけでは入れないのが、この学園なのである。
 その嫌味なぐらい厳しい編入試験を、その転入生はやすやすと突破したらしい。
 名前は棚橋ゆら。15歳、高校1年生。
 昨年1年間、英国に海外留学していたという経歴以外は、いっさいの情報が伝えられていない。どのような育ちなのか、どんな外見をしているのか、性格は馴染みやすいのか。
 そのため学内では、ここのところ彼女の話題が一人歩きをしていた。何でもどこかの代議士の落とし子だとか、大物歌手の隠し子だとか、小国のお姫様だとか。もちろん根も葉もない噂である。女だらけの閉鎖社会では、こういった噂の類は、冬の落ち葉のようにそこらじゅう飛び交っているのだ。

 ──彼女を守ってあげなくちゃな。
 時期外れの転入生ということで、ただでさえ注目度が高い上に、寮の部屋が自分と一緒では何かと苦労するだろう。
 自分で言うのもおかしな話だが、多希は学内で結構な人気を博している。
 女にしては背が高く、性格がさばさばしていて男っぽい。運動に差し支えるので髪は短く切り揃えていて、服や化粧にも別段気を使わない。学校指定の水色ジャージが普段着だ。
 レベルの高い双魚学園にあって、学業成績こそ中の下といったところだが、部活動はナギナタ部の部長をやっており、高校のインターハイでは2年連続準優勝という成績を収めている。典型的なスポーツ優等生である。
 そんな彼女が、女だらけの閉鎖社会において、仮想恋愛対象に選ばれるのはごく自然な成り行きだった。恋愛がしたくてたまらない年頃の少女たちが、ふと周りを見渡したとき、背が高くて男っぽい言動が目立つ彼女は、いの一番に視界に止まりやすい。
 彼女はうんざりするぐらい、同性によくモテた。
 寮の部屋割りをめぐっては、彼女と同室を希望する生徒が殺到し、管理者である寮長のもとには脅迫まがいの手紙まで届いたそうである。困り果てた寮長は、特別措置として彼女を一人部屋にすることで問題の解決を図った。基本的に二人一部屋の岩水寮で、これは前代未聞の事態だった。
 そういうわけで、2年の初めから現在に至るまで、多希は寂しく一人部屋の生活を送ってきた。そんな彼女に、ようやくルームメイトができることになったのだ。これまで彼女が占有していた213号室しか、転入生を受け入れる部屋が余ってなかったとの理由から。

 ──変に過激な生徒もいるからなあ。わたしがしっかり防波堤になってあげるんだ。
 霧の向こうから車のエンジン音が聞こえた気がして、多希は視界を覆った白いカーテンに目を凝らした。
 昼間ですらほとんど車通りのない坂道を、一台の車がゆっくりと上ってくる。フォグランプの明かりが、次第にくっきりと形をとり始めた。
 やがて黒い高級セダンのハイヤーが、滑るように校門前に止まった。
 学校側が用意した、送迎用のハイヤーである。見覚えのある顔の運転手が運転席を降りて、後部座席のドアを恭しく開いた。
「どうもありがとうございます」
 後部シートから、少女の声がした。
 多希は緊張が入り混じった面持ちで、ハイヤーに近付いてゆく。
 ドアの陰から、二本の細い足が見えた。
 続いて長く柔らかそうな黒髪が、視界に飛び込んでくる。
 優雅で隙のない立ち振る舞いだった。余程いいところのお嬢様に違いない。
 キレイだ。
 多希の胸中に、これまで感じたことのない愉悦が沸き起こった。
 たぶんどこかで、こうでなければならないという驕りに似た気持ちがあったのだろう。自分と同室になるからには、平凡な女であってはいけない。誰もがはっと目を見張るぐらいの、美しい少女でなければ分不相応だ。
 棚橋ゆらは、その条件を完璧に満たしていた。
 まるで日本人形のような黒髪。長い睫毛の下に、猫みたいに大きくよく動く瞳。桜色の唇は微かに笑みをたたえており、首筋から鎖骨あたりにかけての肌の白さときたら、つるつるに磨かれたオパールのよう。
 飾り気のない白のワンピース姿だが、それが一層、彼女自身の魅力を際立たせていた。物静かで落ち着きがあって、別荘地の湖畔にたたずんでいるのがよく似合いそうな、ゆったりとした空気感を全身から漂わせている。

「お荷物、お運びいたしましょうか?」
「いえ、このバッグ一つだけですから。ありがとうございます」
 運転手に礼を言って、ゆらは車から下りた。すぐに多希の存在に気が付いたようだ。
「おはようございます。双魚学園の方ですか?」
「そうだよ。棚橋ゆらさん、でいいのかな?」
 多希は上擦り気味の声で答える。なぜか胸がドキドキした。
「はい。あなたは?」
「近藤多希。高3。一応、今日から君とルームメイトになることになったから」
「先輩ですね。よろしくお願いします」
 気難しい性格という噂は、どうやら誤報だったらしい。先輩後輩の礼儀をちゃんとわきまえている。これならうまくやって行けそうだと思った。
「じゃあ、さっそく寮まで案内するよ」
「ええと、その前に、一つ確認してもいいですか」
 呼び止められて振り返った多希に、ゆらがさっと身を寄せた。
 距離にして30センチと離れていない。突然の接近に、多希は驚いて身体を凝固させる。
「なに?」
「あ、やっぱり思った通りですね。これは幸先いいかも」
「思った通りって?」
 多希の言葉は続かない。上目遣いでこちらを見据えるゆらの瞳に、完全に射竦められた格好であった。
 ──何て、瞳に力がある子なんだろう。
 いいとこのお嬢様という第一印象を、早くも撤回しなければならなかった。
 ──彼女は何て言うか……そう。魔性だ。
 直感がそう告げていた。
 大人しそうな顔をしているが、彼女は人を惑わす種類の人間だ。目的のためならば、他人を利用し、他人を貶めることも厭わない。実際、そういった悪行を過去に何度も行ってきた者だけが持つ、危険な輝きを秘めた瞳であった。
 多希は言い知れぬ恐怖に支配された。一体、この少女は何者なのだろう。

「隠しても無駄ですよ。わたしには見えるんです」
 ゆらが間近で囁いた。多希の背筋をすっと悪寒が駆け抜ける。
「な、何言ってるか分からないんだけど」
「自覚、ないんですか?」
「だからさ、何のこと!?」
 思わず声を荒げる。彼女にペースを握られている状況が堪らなく怖かったのだ。
「君、1年だよね? ちょっと生意気じゃない?」
「どうやら、尚早だったみたいですね。どうもすいませんでした」
 ゆらが身を引いた。怪しげな輝きを放つ瞳は、一瞬にして影を潜めた。
 彼女は何事もなかったように、微笑んで告げる。
「では先輩、寮まで案内お願いします」
 この変わり身の早さは何なのだろう。まるで二つの別人格が、一つの体に同居しているみたいだ。いや、それだけ表と裏の顔の使い分けが見事なのである。

「先輩、どうかしたんですか?」
「……いや、行こうか」
 多々ある疑問を胸のうちに仕舞い込んで、多希は校門をくぐり抜けた。
 小さなバッグを両手に提げたゆらが、彼女の隣に並んだ。
 さっきの言葉は、どういう意味だったのだろうか。見えるとか、自覚とか、尚早とか。彼女と会うのはこれが初めてのはずだが、まるでこちらの秘密を握っているような口ぶりだった。
「双魚学園は、キレイなところですね」
 建物まで延々と続く白い石畳を歩きながら、ゆらが感慨深げに呟いた。
 その石畳に沿って、透き通った湧き水が流れる細い水路が続いている。この水路は学内いたるところに張り巡らされていて、生徒たちは普通に飲み水として利用したり、物を洗ったりもする。流水に足をひたしてくつろぐ女子生徒の姿なども、あちこちで目撃することができる。
「この水って、富士山の湧き水ですか?」
「うん。この学校、他には何にもないけど、水だけはタダだから」
「学校の雰囲気はどんな感じですか?」
「ごく普通の女子高だよ。いいとこのお嬢様が多いから、わりとのんびりしてるね」
 二人は正面に見える学園の校舎に向かって歩きながら、会話をかわす。
「先輩もどこかのお嬢様ですか?」
「わたしは普通の中流家庭。この学園に入れたのは、スポーツ推薦のおかげ」
「ああ、運動神経よさそうですもんね」
「それだけが取り柄だからね。小さい頃からやっていたナギナタが認められて、運良く入学できたって感じ」
「今もナギナタを?」
「そうだよ。もうすぐ引退だけど、ナギナタ部の部長をやってる。もしよければ、君も入部してみる?」
 すると、ゆらはなぜか警戒心をチラつかせる。
「どうかした?」
「先輩、もしかして、誰かにわたしを勧誘するように指示されました?」
 どうしてそういう解釈になるのだろう。
 またわけの分からないことを言い始めたと、いい加減イラついた多希は、詰問するように言葉を浴びせた。
「あのね、意味不明なんだけど。さっきの態度といい、君は、わたしの何を知ってるわけ? 歯の奥にものが挟まったみたいな言い方、気分が悪いよ」
「ごめんなさい。気分を損ねたのなら、謝ります。転校初日で、わたしも少し興奮していたみたいです。いずれ詳しくお話しする時も来るでしょうけど、今はあまり気にしないで下さい」
 ゆらは笑ってはぐらかそうとする。
「だからさ、その言い方が余計に腹立つんだよ。今後わたしと良好な関係を築きたいのなら、変な隠し事はしないでもらえる? 細かいことが、凄く気になる性格なんだ」
「隠し事とは違います。何というか、現状で説明できることが少ないだけです。ただ……」
 彼女は一呼吸おいて宣告した。
「ごめんなさい。これだけは覚悟しておいて下さい。わたし、先輩を殺してしまうかも知れません」

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