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在り方の話





私は自分の子供じゃない子供に対して
かけがえのないとか。大切。平等に接する。
とは正直思ってない。

もちろん非道なことはしないけれど。
自分の子供は特別でしかない。

公共の場で『放置子』に遭遇する度
モヤモヤした思いを抱える。

人当たりの良い主人は
いわゆる『かまってくれる大人』で
自分達の子供と遊んでいると
他所の子が寄ってくる。

自分の子供が一緒に楽しめれば良い。
全然良い。

ただ、中には飢えている子供もいる。
かまってくれる大人を察知している気がする。

自分の子供よりも
主張がエスカレートし始める他所の子供に
私はこれ以上の要求へNOを伝える。

葛藤はある。けれど、私はその子の親ではない。

自分の子供との時間を過ごしている。
自分の子供の気持ちが最優先だ。

誰の味方であるのか親として示す。
自分達の子供の為に。

過去『かまってくれる大人』だった私は
母になってから他所の子に必要以上
かまわないタイプに切り替えた。

切り取り方によっては冷たい大人なのかもしれない。でもこの選択は満たされなかった過去の私へのケアでもある。

どんな状況であれ私は私の子供、家族しか
愛せない。責任を持てない。

葛藤の原因を掴んだ今日に
自分がどう在りたいのか考えた。

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幼少期に見た自分の父親の外交性、外面の良さ。
反する私に対しての無関心さ。

父親からぞんざいに扱われ、味方とは思えない感覚。満たされなかった父親からの承認欲求はきっと自己評価の低さに繋がったのだろうと思った。

家庭内での父親、家庭外の父親。

家庭の外には『明るく活発で周囲に対して啓発的な子煩悩』
特に子供向けの地域活動では先生役を勝手でて仕切りたがり、目立ちたがり、まとめ役だった。

一方の家庭内では『プライドが高く、身勝手、無口、傲慢でコミュニケーションが難しい』
そんな父親の外での姿を見る事の多かった幼少期。家庭内でのギャップはきっと幼い私を不安にさせた。

父親が示す私への扱いと
他所の子への扱いの違いを感じ取る。

相手にされないのは
私に足りない所があるからなのでは。
私では無い誰かを評価し比べているのでは。
私の事は不要なのでは。

他所の子の事は認め、褒めているのに。

その不安思考は今も私に残っている。
小さな原因の一つでしか無いけれど。

子である私への興味関心や
楽しんでいる事への理解、興味の無さは
いやでも伝わった。
私は尊重されない孤立を感じた。

例え、父親自身が語れる分野に私が興味を持ってもこちらが求めていない知識や技術の押し付け。プライドが故なのか子供に対してもマウントを取りシラけさせる。その手のタイプだったからそもそも理解し合うことは難しかったけれど。

父親自身は新し物好きで先進的な事をしている自分をきっと好きだったと思う。今でいう多様性とか地域貢献、再生可能な環境とか社会の新しい取り組みとかそれ系の事をしている事に自負があるようだった。

ただ、家族に対しては話が別で妻、子供には(品行方正、容姿端麗、文武両道)いわゆる自慢できる。とか、世間体的に『褒められる』みたいな古めな理想があったんだと思う。

他所の子に対しては理解のある大人像で接しているのに自身の子供である私にはガチガチの理想を求め矯正的だった。

当時の私は父親の裏表に気づいていない。

納得のいく理由は無いまま理想的な子供である事を求められ矯正され本来の自分を見てもらえない。私が感じるのは自分が期待外れである劣等感と理解されない苦痛だった。

父親は自分の子供の思いや考えでは無く
『教育する父親としての自身の評価、世間体』
の方がきっと大事だったんだと今は思う。

子である自分自身が父親のプライドや世間体に必要なステータスの一部だったと感じた今日。

人は何を思って行動を起こすのか身に沁みた。

私は他所からどう思われてもいい。
私は自分の子供しか愛せない。

自分の子の関心や見ている世界を例え理解できなくても肯定できる柔らかい姿勢でいたい。

どんな事が起きても特別であり
味方だと伝え続ける。

自分の子供に私のような
悲しい思いは絶対にさせない。

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