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食糧不足と伯母の家(昭和16年)

昭和十六年、日本は日中戦争開始以来四年目である。
長引く戦争で、生活必需物資が欠乏し、配給統制が全面化した。四月一日から六大都市で米の配給制が始まって、各家庭に米穀通帳が渡された。大人一人当たり一日二合三勺である。労働している者たちはとてもひもじい思いを強いられた。
この年の十二月八日に太平洋戦争が開始され、益々困窮するばかりだった。国民は防空頭巾にモンペ、非常袋を背負い、男の人はゲートルを巻いていた。
次の年、昭和十七年二月からは、衣料も切符制になり、自由に買えなくなった。古い和服をモンペに作り変えたりして着ていた。靴下も不足して、自分で足袋を作って履いていた。
私は十四歳の育ち盛りだったので、常にお腹が空いていた。非常食として、空き瓶に入れ腰に下げていた煎り豆(大豆をフライパンで煎って塩をまぶしたもの)を、我慢しきれずにぽつりぽつりと食べてしまって、すぐなくなってしまうのだ。非常食なのだから非常時に食べるべきなのに・・・。
私は豆がなくなると、伯母の家へ向かうのだ。かなり(六㎞)の道のりがあったのだが、豆欲しさのために、距離などものともせず歩いた。
伯母は母の姉さんで、農業をしていたので、豆や落花生が豊富だった。
私は伯母の家に辿り着くなり「伯母ちゃん、非常食なくなっちゃったんだよ」と言うと、伯母は早速フライパンに少々の油を塗り、大豆と落花生を煎り、塩をまぶしてくれるのである。それからサツマイモを蒸かしたり、おじゃがを煮て味噌がらめを作ってくれるのである。
私はお腹一杯食べさせてもらって、非常食用の瓶に豆と落花生をたっぷり詰めてもらい、「日の暮れぬうちに」と伯母が気を遣ってくれて、帰途につくのだった。
この時、農業の大切さを痛感した。

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