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肥料に手を出し解放した田畑を売り飛ばす従兄弟(昭和20年~)

「下手な考え休むに似たり」という諺があるが、これより酷い「稚拙な考え破滅に似たり」と言い換えたい。

UKは母の従兄弟であるが、ずる賢い男であった。
戦後、不在地主は農地解放をして、小作人達を助ける法案が、社会党内閣、即ち片山内閣の時に作られた。父も母も農業が嫌いで、サラリーマンになって都会に住みたかったので、我が家が火災で焼失してしまったのをチャンスとして、宇都宮に居を移した。その時はまだ祖母が残っていたが、その内祖母も年を取って、一人では寂しくなったので、宇都宮に引き取り、同居した。私達一家は、一時故郷を捨てた形となった。

母は近くに住んでいたUKに農地を解放した。口約束で「将来定年になったら帰京するから、それまで持っていてくれ」と頼んだのだ。UKは喜んで引き受けた。思いもかけず、広い田畑が「棚ぼた」式に転がり込んだのだから・・・。
当時は一反歩の田んぼから、お米が四俵しか取れなかったが、戦争も終わり、どうやら平和になり、今まで高等農林専門学校だった学校が農業大学に昇格して、バイオの研究を始めた。そして肥料の研究も盛んになり、一反歩からお米が今までの一・五倍の六俵取れるようになった。
UKは「しめた」と思って、この肥料を借金して納屋一杯買い込み、翌年青年団を通じて高く売りさばいて大儲けしようと企んだ。ところが次の年はもっと良い肥料が開発され、一・五倍どころか、二倍の八俵取れるようになったのである。さあ大変、買い込んだ肥料は売れないわ、借金は払えないわで大慌て。放っておけば利子が嵩んで、益々損害が大きくなってしまうのである。

そこで彼は考えた。
「解放された田畑は、どうせ貰ったものだから、売り飛ばしてしまえ」とばかりに、一言の断りもなしに売り飛ばしてしまったのである。
それを見ていた近所の人が、母の勤め先の県庁に電話をかけてくれた。
「UKさんは田畑を売ってしまったようですが、ご存じなんですか?」と・・・。
母はびっくりしてUKの家へ確かめに行った。
売ってしまった後だった。その時の、けだし名言。
「背に腹は代えられませんでした。すみませんでした」と一回頭を下げただけだったという。
母はがっかりした。親戚なので諦めるより仕方がなかったのである。これで火災以来我が家の財産は空っぽである。後は屋敷と竹林だけになってしまった。

ところがその後、ずる賢いUKはこの竹林に目をつけた。
「どうせGちゃんは田畑も無くなったのだから、帰って来やしないから、俺が貰ってやる」とばかりに、竹の根を起こして畑に変えてしまった。
当時の農地法では「現況が畑ならば畑と見做す」という条例があったのだ。それに掛けて自分の物にしようとしたのである。どこまでも図々しくずるい人格である。
この時も近所の人からの連絡で分かったのだ。母はまた怒って、もう裁判をやるしかないと家裁に訴えた。そしてやっと取り返したのである。

その後母は、畑ではなく宅地転換をして維持してきた。
母が亡くなってからは姉が相続したが、姉も利用することなく、固定資産税を払ったり、草取り料を払ったりして、無用の長物になっていた。

今は母も姉も故人となり、私が相続したのだが、私ももう九十歳になってしまったから、利用できない無用の長物である。
しかし母の気持ちを考えると軽々しく扱えない思いも残るので、息子の判断に任せているが、毎年草刈りをしなければならないので、春から夏にかけて大変である。
悩みの種になってしまった。

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