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万燈祭と提灯行列(昭和12年前後)

小学生の頃、楽しかったことと言えば、遠足や運動会など、学校行事は勿論のこと、地域では、私の家が大きなお寺の近くにあったことから、このお寺のお祭り、即ち「万燈祭」の行列に加わることも楽しみの一つだった。
このお寺は宇都宮市の郊外にあって、かなり高い山の上にあったから、子どもの足で登って行くと、ハーハー息をはずませながら十五分位かかったと記憶している。

このお寺で年に一度、夏休みの中頃に、万燈の祭をするのである。
昼間のうちに準備をしておいて、夕方薄暗くなってから始まるのだ。万燈とは開店祝いの時に飾る花輪にお灯明をかたどった懐中電灯のようなものを埋め込んでイルミネイトするので、ちょうどクリスマスツリーのイルミネーションと同じようなものだ。
そんな万燈がいくつもいくつも大勢の人に担がれて、町の中を練り歩くのである。その様子は実に見事なものだった。
その頃は外灯もまばらだったから、万燈の明るい光が空高く揺れて、天の川が頭上に降って来たかと思われる程明るく美しかった。
万燈の後ろに信者たちが団扇のような太鼓とバチを持って「トンツクトントンツクツク、トンツクトントンツクツク」と鳴らしながら続き、私たち子どもはその又後ろからぞろぞろついて行った。
何という宗教であったか今でもはっきりしないが、私たち子どもにとっては宗教などどうでも良かったのだ。お友達と一緒に行列に加わり、普段行ったこともない町並みを見に行くのが面白かったのだ。
父や母も、万燈と一緒ならば迷子にもならないので、夜のそぞろ歩きを許したのである。
こんなところに駄菓子屋があるとか、お醤油工場があるとか、立派な門構えの家や庭園のきれいなお屋敷などを眺めたりして、町中を練り歩き、ずいぶん疲れた。お腹も空いた。
夜七時頃、行列はお寺に帰るのである。母たちが幾ばくかの会費を納めてくれているので、行列が終わると、ご馳走が出るのだ。お寺だから精進料理で、お赤飯や白和え、根菜類の煮物だった。
子どもたちは、本堂の横の細長い部屋で、一人一人のお膳で頂くのだが、それがいかにも一人前になった感じで、気分の良いものだった。昔は給食などというものがなかったので、みんなが同じものを、おしゃべりしながら食べられる機会は万燈祭の時だけである。

このお祭りが楽しい思い出だったのには、もう一つの理由もあるのだ。
私が四年生の時(昭和十二年七月七日)、蘆溝橋で日中両軍が衝突し、日中戦争が始まったのだ、日本はまだ勝ち戦だったので、私たち子どもは何も知らずに平和に暮らしていた。
しかし、昭和十三年~十四年と経過すると、親戚の中には召集令状を受け、出征する者も二人・三人と出て来て、お祭りどころではなくなってきた。
この万燈祭も、私が五年生の時を最後に、取りやめになったのである。
そして、万燈祭にとって代わったのが、提灯行列だった。
日本軍は、南京、徐州、広東、武漢、三鎮など、次々に占領した。その勝ち戦を祝って、カンテラ行列やら提灯行列が行われた。中学生以上の大人たちの行列だったから、子どもたちは道端で眺めながら、時々「万歳!」などと叫んだりしていた。
でも万燈祭のような楽しさはなく、唯々不安の中の異常な興奮でしかなかった。いつどんな形で戦争が終わるのか、まったくわからなかったからである。

だから、万燈祭の思い出が、平和の象徴のように、いつまでも私の胸に残っているのである。

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