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《世界史》フランス皇帝ナポレオンと家族

こんにちは。
Ayaです。
今日からナポレオンと家族、女性たちについてまとめます。初回の今日は彼の業績と彼の子ども、妹についてまとめます。

ナポレオン・ボナパルト(1769〜1821)

ナポレオンは1769年フランス領コルシカ島で下級貴族の家に生まれます。フランス領と言っても、イタリアに近いので、もともとの名前はナポリオーネ・ブナオパルテと言います。両親の間には5男3女が生まれており、彼は次男として生まれました。この兄弟姉妹の人生も彼によって激変します。
当時の貴族の家庭では、基本的に長男が軍人、次男は僧侶になることが一般的でしたが、彼の兄と彼では素質が反対だったので、彼が軍の幼年学校に入学しました。士官学校では花形だった騎兵科ではなく、砲兵科で学びます。成績は同期のなかではあまり目立ちませんでしたが、最速11ヶ月で卒業しています。学校ではコルシカなまりが馬鹿にされたようで、無口で読書を好む少年だったそうです。
1785年士官学校を卒業して、砲兵士官として任官します。4年後フランス革命が勃発しますが、当時の彼はあまり関心がありませんでした。しかし、実家ボナパルト家が島内の政治対立に敗れ、マルセイユに逃亡したことから政治に関心を持ちます。ロベスピエールの弟とも交流を重ねていました。そのせいでテルミドールのクーデターの後は左遷されてしまいます。ですが、1795年王党派の反乱を鎮圧し、その月がフランス革命暦ヴァンデミール(葡萄月)だったため、『ヴァンデミール将軍』の異名を得ます。
1796年には有力者の愛人だったジョゼフィーヌ・ボルアネと結婚。同年イタリア方面の司令官に任じられ、各地で連勝を重ね、英雄として歓迎されます。
次はエジプト遠征に向かいますが、妻ジョゼフィーヌの不倫を知ります。それを嘆く手紙を兄弟に送りますが、イギリスの謀略で内容が晒されてしまいます。このことに怒り、離婚するつもりで帰国しますが、ジョゼフィーヌの子どもたち(義理の子)の懇願で離婚を撤回します。
1799年ブリュメール18日のクーデターで第一統領になります。翌年には有名なアルプス越えをしたイタリア遠征も行い、人々の人気を集めます。

ダヴィド『サン=ベルナール峠のナポレオン』
当時から人気を集め多数のヴァージョンがある。実際はロバによる行軍だったのは有名な話

軍事以外にも政治的な活動も行い、ナポレオン法典を公布します。
そしてついに1804年『フランス人民皇帝』として戴冠します。いままでの"王"ではなく、議会によって選ばれたので"皇帝'と名乗っていましたが、同時に彼の子孫が継承するとされたので世襲であることはかわりませんでした。しかし、ジョゼフィーヌとの間に長い間子どもがいなかったので、後継者問題に悩まされることになります。

アングル『王座のナポレオン』
今までの国王と同じ衣装だが、王冠ではなく月桂冠を被ることで古代ローマの皇帝を表している。当時は古代ローマの衣装が人気だった。

イギリスとのトラファルガーの戦いに敗れましたが、アウステルリッツの会戦に勝利して、神聖ローマ帝国を崩壊させます。残ったイギリスには大陸封鎖で苦しめます。その後もスペインに攻め込み、領土を広げていきます。
その頃、愛人が庶子を産んだため、自身の生殖能力を確認し、糟糠の妻ジョゼフィーヌと離婚します。後妻にはフランツ1世の皇女マリー・ルイーズを迎え、翌年には待望の男子をもうけます。
当時『世界の工場』だったイギリスからの輸入を禁ずる大陸封鎖は他国にとって無理難題でした。ロシアが破ったのを知ると、ナポレオンはロシアへ侵攻します。
しかし、ロシアの将軍クトゥーゾフの老獪な焦土戦略に苦しめられ、さらに寒さで歴史的な大敗をきします。これを知った他国は一斉に反旗を翻します。身内からの裏切りで退位させられ、ナポレオンはエルバ島に流刑となります。
ナポレオンがエルバ島に流された後、いわゆる『ウィーン会議』が開かれます。『会議は踊る、されど進まず』と称された通り、大国の利害が対立し、全く進みませんでした。ナポレオンの後国王に据えられていたルイ18世(ルイ16世の弟)も前時代的な統治を行なっていたため、人気がありませんでした。
そんな状況下で、1815年ナポレオンはエルバ島を脱出、パリに帰還します。前回の反省を活かして立憲君主制を目指しますが、ワーテルローの戦いで大敗、絶海の孤島セントヘレナ島に流刑となります。帰還から再度の流刑までは実際は95日間でしたが、一般的には『百日天下』と言われます。セントヘレナ島での生活は過酷で、1821年亡くなります。享年51歳。最期の言葉は『フランス、軍隊、ジョゼフィーヌ‥』でした。
1840年ナポレオンの遺骸はフランスに返還され、アン・ヴァリット(廃兵院)に安置されました。

ナポレオンにはこどもが2人います。

ナポレオン2世(1811〜1832)

ナポレオン2世は1811年ナポレオンと2人目の妻マリー・ルイーズの間に生まれました。ナポレオンにとって待望の後継者で、生まれてすぐローマ王の称号を授けています。
しかし、わずか3歳で父から引き離され、母の故郷ウィーンに移されます。ナポレオンの百日天下が終わった際、名目だけの皇帝に即位しています。ナポレオンがエルバ島にいた際は合流する気があった母マリー・ルイーズですが、自身が愛人を持つとその気も無くなってしまいます。これはオーストリア政府の画策だったのでしょう。母マリー・ルイーズはパナマ領主として愛人とともに赴任します。ナポレオン2世は警戒のため連れて行けませんでしたが、幼い彼にとって母に捨てられたのと同様でした。
ときどき面会には訪れていたようですが、この環境がさらに父ナポレオンに対する憧憬を膨らませていったようでした。オーストリア政府は当惑し、彼をライヒシュタット公に任じられます。1840年の父の死を知った彼は号泣したと伝わっています。母マリー・ルイーズは愛人と再婚しましたが、後日父の生存時に母が愛人の子どもを出産していたことを知りショックをうけます。
フランツ1世の孫でありながら、ナポレオンの血をひく彼はウィーンの宮廷では異質でした。そんな彼にとって唯一、心を開ける存在がいました。フランツ1世の子カール大公の妃ゾフィーです。2人は義理の叔母甥にあたりますが、ゾフィーもバイエルンから嫁いできたばかりだったので意気投合したのでしょう。2人の仲はまるで恋人のようだと噂になりました。

ナポレオン2世
ゾフィーと息子フランツ・ヨーゼフ
後年エリザベートの姑として有名になるが、当時は美貌で有名だった。ナポレオン2世は『慈悲深い美の天使』と呼んでいた。

籠の鳥の彼にも夢がありました。父のような偉大な軍人になることでした。しかし、夢は果たせず、1832年母マリー・ルイーズと恋人ゾフィーに見守られながら結核でなくなります。まだ21歳の若さでした。遺体は一旦ウィーンで葬られましたが、1900年ヒトラーの政策によって父の隣に移されます。現在、アン・ヴァリットで父とともに眠っています。
ゾフィーですが、ナポレオン2世の死の直前に次男マクシミリアンを出産していました。ゾフィーとナポレオン2世の仲は周知の事実でしたし、夫とは不仲で有名だったので、当時からナポレオン2世の子どもではないかと言われていました。真相は謎ですがこのマクシミリアンがのちにメキシコ皇帝となり、ナポレオン3世の裏切りで非業の死を遂げたことは運命の残酷さを感じます。
もう1人はナポレオンと愛人の間に生まれた息子です。

アレクサンドル・ヴァレフスキ(1810〜1868)

アレクサンドル・ヴァレフスキは1810年ナポレオンとポーランド人の愛人マリア・ヴァレフスカの間に生まれます。彼の母の妊娠によって自身の生殖能力を確認し、ジョゼフィーヌとの離婚を決意したのは前述の通りです。とはいえ、母の正式な夫ヴァレフスキ伯の認知を受けたので、ヴァレフスキ
伯の子どもとして育ちます。
ナポレオンがエルバ島に流されていた際は母に連れられて流刑先を訪れています。しかし、正妻のマリー・ルイーズの目を気にしたナポレオンに帰らせられてしまいました。7歳の時母を、11歳の時父を亡くします。
成長すると、フランスの陸軍に入ります。1848年に従兄ナポレオン3世が即位すると、外務大臣になります。彼はナポレオンと瓜二つだったので、みんな彼をナポレオン3世だと思ったそうです。2度結婚して、6人の子どもをもうけていました。
1868年亡くなります。享年51歳。

アレクサンドル・ヴァレフスキ

ナポレオンは征服地に自身の兄弟を派遣して王として傀儡政権を立てていました。兄ジョゼフはスペイン王、次弟ルイ(ナポレオン3世の父)はホラント王、末弟ジェロームはヴェストファーレン王となっています。妹たちも有力者と結婚させ、それぞれの配偶者を好遇しています。なかでも有名なポリーヌについてまとめます。

ポリーヌ・ボナパルト(1780〜1825)

ポリーヌはナポレオンより11歳年下の妹です。ナポレオンは彼女を『ポーレット』と呼び可愛がっていました。彼女はナポレオンの妹の中でも一番の美女でした。それゆえ、恋多い女性でした。
はじめての恋は15歳の時で、兄の副官でした。ナポレオンの反対で失恋に終わります。その後、ルクレール将軍と結婚しますが、熱病で失います。一方、ナポレオンのジョゼフィーヌとの結婚に強硬に反対したのは彼女でした。彼女に言わせれば、年上で2人の子連れなど許せなかったのでしょう。
うるさい妹を黙らせるためか、ナポレオンはイタリアの名門貴族カミッロ・ボルゲーゼと結婚させます。当時イタリア一の美男と言われていた人物で、ナポレオンとしては自信あったのでしょうが、ボルゲーゼはまともに文章も書けなかったらしく、ポリーヌは心惹かれませんでした。すぐにパリに戻って遊び回ります。ヌードモデルをつとめたり、恋人がロシア戦で亡くなったときは、自殺するか修道院に入ると言ったりで、ナポレオンをいつも困らせていました。
しかし、そんな彼女だけナポレオンの没落後も尽くし続けます。エルバ島では母と一緒に生活し、生活費が足りなくなると宝石も売り払います。ナポレオンがセントヘレナ島で病気に倒れたときも、駆けつけようとしましたが叶いませんでした。すでに前妻ジョゼフィーヌと愛人マリア・ヴァレフスカは亡くなり、後妻マリー・ルイーズに見捨てられたナポレオンにとって、ポリーヌは唯一気にかけてくれる存在でした。
ナポレオンの死の4年後、夫ボルゲーゼに看取られながら、亡くなりました。享年44歳。

ウェヌスとしてのポリーヌ
ポリーヌからは愛されていなかったボルゲーゼ氏だが、彼女の美しさを伝えたいとこの彫刻をつくらせた。

ナポレオンの家族、まとめ終わりました。
ナポレオン2世が長生きしていたら、ナポレオン3世の出番はなかったでしょう。彼の死を聞いて、祖父フランツ1世は涙を流したと言われています。敵ナポレオンの血を引いていても、かわいい孫だったのでしょう。ヴァレフスキは写真が残っているので、ナポレオンの姿を伝えてくれています。嫡流はナポレオン2世の死で途絶えますが、ヴァレフスキの子孫がいるので現在までナポレオンの血は伝わっているようです。
ポリーヌだけでなく、他の兄弟姉妹も、ナポレオンがいなければ、普通の人生を歩んでいたでしょう。ルクレチィア・ボルジアもですが、偉大な兄弟を持つって大変ですよね〜。
次はナポレオンと女性たちについてまとめます。

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