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《世界史》2人の女王

こんにちは。
Ayaです。
今日はチューダー朝最終話、エリザベス1世とメアリー・スチュアートについてまとめます。

エリザベス1世(1533〜1603)

さまざまな困難を乗り越えて即位したエリザベス1世。
父ヘンリー8世の英国国教会設立以来からの課題であった宗教対立や、自身の結婚問題など、彼女の政治スタイルは『先延ばし』でした。しかし、先延ばしすることで明らかな対立を避け、のちの大英帝国発展の基礎を築いたとされています。その政治バランスはやはり若い頃の困難のうちに身につけたといえるでしょう。

エリザベス1世
"処女王'として有名な彼女だが、何人か愛人がいたことが明らかになっている。しかし"処女王"として振る舞い、晩年には伝説化していた。

そんな彼女にとって、一番の懸念が自身の王位の正当性でした。その急先鋒が隣国スコットランドの女王メアリー・スチュアートだったのです。

メアリー・ステュアート(1542〜1587)

メアリー・スチュアートは1542年スコットランド王ジェームズ5世とその妻メアリー・オブ・ギーズとの間に生まれました。父ジェームズ5世はヘンリー8世の姉マーガレットの息子のため、エリザベス1世にとって、メアリーは従兄の娘という関係にあたります。
そのジェームズ5世ですが、メアリーが生まれて6日後に崩御してしまい、メアリーは生後6日で女王となります。このことに目をつけたのが、ヘンリー8世でした。ヘンリー8世は自分の息子エドワードとメアリーを結婚させ、スコットランドを併合しようとします。このことを察知した母の機転で、母の実家ギーズ家を頼りに、メアリーはフランスへ渡ります。
フランスではアンリ2世の保護のもとで、成長し、1558年にはアンリ2世王太子フランソワ(後のフランソワ2世)と結婚。アンリ2世は同年即位していたエリザベス1世に対して、『庶子であるエリザベスより、メアリーのほうが王位継承すべし』と発言します。メアリー本人もその気になり、イングランド継承者をあらわす紋章を使い始めます。エリザベス1世はこの行動に激怒、因縁の戦いが始まります。
同年アンリ2世が不慮の事故で崩御(ノストラダムスの予言的中例とされてますね)すると、メアリーの夫フランソワが即位します。このとき、メアリーはフランス王妃とスコットランド女王を兼ねる最高の地位を手に入れました。
しかし、幸せは長く続きません。1560年夫のフランソワ2世が崩御してしまうのです。子供がいなかったこと、義母カトリーヌ・ド・メディシスとの相性の悪さ、
スコットランドで摂政を行っていた母の死により、うまれてすぐ離れたスコットランドに帰国します。

メアリー・ステュアート
美貌とともに、当時一流の文化人から称賛される文学的才能を持っていた。しかし、政治的センスはあまりなかった。メアリーを御しやすいようにギーズ家があまり教育しなかったと言われている。

スコットランドに帰国すると、庶兄マリ伯に政治を任せ、自身はフランスにいたころの宮廷生活を縮小したような生活を送ります。しかし、すぐに自身の再婚問題が発生するのです。未亡人といってもまだ若く、その上カトリックだったので、ひくてあまただったのです。
エリザベスもこのことに憂慮していました。メアリーが大国のだれかと結婚した場合、メアリーの継承権を盾に侵攻される可能性があるからです。メアリーは最初スペインのドン・カルロス王太子(フェリペ2世の息子)との再婚を検討しましたが、エリザベスに阻止されます。結局、1565年自身の従弟のダーンリー卿と再婚しました。
ダーンリー卿は父ジェームズ5世の異父妹(マーガレットがスコットランド王の死後再婚し産んだ娘)の息子であり、イングランド王位の継承権もありましたが、エリザベスが恐れていた大国の介入はさけることができました。エリザベスがメアリーが好むタイプだったダーンリー卿を送り込んだとも言われています。
しかし、この結婚も長く続きません。長身で眉目秀麗のダーンリー卿でしたが、我儘で、メアリーにも横柄な態度をとるようになるのです。
そんなとき、メアリーは音楽家のリッチオに心を許します。リッチオはピエモンテ大使の御付きでしたが、侍従にまで取り立てられます。浮気だと怒ったダーンリー卿と、外国人が取り立てられることに危機感を感じた一部の貴族が、行動にでます。メアリーの目の前で、リッチオを殺してしまうのです。しかも、当時妊娠中だったメアリーのお腹に刃物を押し付けていました。

リッチオの殺害

この一件でメアリーは流産しかけますが、1566年息子ジェームズ(後のジェームズ6世)を出産しました。しかし、ダーリーン卿は自身の息子か疑い、夫婦仲は冷め切ったままでした。
メアリーはダーンリー卿に愛想を尽かし、新しい男性とであいます。彼はボスウェル伯といい、武勇でしられた人で、メアリーはその男らしさに夢中になります。

ボスウェル伯
事件後、デンマークで客死。すでに発狂していたとも言われるが、死の直前ダーンリー卿暗殺は自身の単独犯行と言ったとされる。

1567年、事件が起こります。ダーンリー卿の静養していた建物が爆破され、ダーンリー卿の絞殺死体が発見されたのです。
その上、ボスウェル伯がメアリーを拉致し、『強姦』したというニュースが入ります。そして2人は結婚します。
この荒唐無稽な事件には理由がありました。メアリーがボスウェル伯のこどもを妊娠していたのです。しかしあからさまなこの行動に国民は怒り心頭、庶兄マリ伯が反乱を起こします。
2人はなすすべもなく敗れ、ボスウェル伯の亡命を引き換えに、メアリーは息子に譲位します。メアリーは幽閉されてしまいます。(ボスウェル伯とのこどもは流産したとも、養子に出されたともいわれている)
幽閉先を脱出したメアリーは悩みます。逃亡先にはスペイン、フランス、イギリスの候補がありました。スペインにはフェリペ2世(息子と妻を亡くし、再婚相手を探していた)がいますが、その真意はわからない男性でした。フランスは元姑カトリーヌ・ド・メディシスが健在で行きずらい‥。そして、メアリーはイギリスへの亡命を決めるのです。
エリザベスとしては、許し難い行動でした。しかし、追い出しても反エリザベスの旗に利用される可能性があり、しぶしぶ亡命を受け入れました。メアリーには城を与え悠々自適な生活を与えます。
しかし、それはメアリーにとって飼い殺しと同じでした。女王であったという過去がある以上、囚われの身であるのは屈辱以外のなにものでもなかったでしょう。助けてくれる可能性があるのは息子だけですが、息子は実父を殺した母を憎んでいました。
そのうちエリザベス1世を廃位して、自身を擁立しようとするカトリック派の陰謀に関与するようになり、とうとうその証拠が当局に見つかってしまいます。
このときもエリザベスは迷ったといわれています。しかし、1587年メアリーの処刑が行われます。
メアリーは最期まで自身の潔白を主張し、処刑場には"殉教"を意味する赤い服装で現れました。しかし、それは処刑人を刺激し、速やかな刑の執行を妨げることになってしまいます。執行後、処刑人は罪人の首を持ち上げるのですが、メアリーはかつらを被っていて、そのかつらをつかまれたため、首が落ちたとされています。最期まで波瀾万丈の人生でした。享年44歳。
メアリーの処刑によって不安要素をなくしたエリザベスでしたが、スペインとのアマルダ海戦を招くこととなります。アマルダ海戦に勝利した後もその統治は続き、1603年崩御。享年69歳。
結局、その死後を継いだのは、メアリーの息子ジェームズ6世でした。彼がジェームズ1世として、即位することで、スチュアート朝が始まるのです。

テューダー朝最終回、ふたりの女王終わりました〜長かった〜
理性に生きたエリザベスと、感性にいきたメアリー。エリザベスにメアリーは殺害されてしまいますが、その血は現在のエリザベス2世まで繋がってます。
次回は何を書こうかな〜、フランスとかいいなとか思ってます。

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