見出し画像

いのちに寄り添う


「苦しくて、、どうしたらいいの?」

この麻薬使ってみたらどうでしょう?
ここにポータブルのトイレ持ってくるからここでトイレにしましょうか。
そんな声かけをする。
 
でもその方は、首をふる。
苦しいのに、トイレにいくと。
麻薬は使いたくない、違う薬で我慢するから大丈夫と。
 
私たちは、
もっとこうしたら楽に過ごせるのにってたくさん思う。

昔のわたしなら苦しくなった。
そんなに何回もナースコールして苦しいっていうなら、
どうしたらいいのってきくなら、
こっちの提案も少しはきいてよーーって思ってた。

そんなに頑なに受け入れられないなら
どうすることもできないじゃん、って。
 
・・・・

その頃のわたし、本当ーーーによくやってた。
自分も苦しみを抱く中で
とにかくその人に向き合って、
どうしてなの、なんでなの!って。
その方が一番苦しいに違いないのだけど、自分も一緒に苦しむを選んでいた。

でもね、今は違う。
 
とってもとっても尊いのだ。

その方のいのちが苦しいという体験をしている、をみているのだ。
その人は、それを選んでいる。自分の魂で。
だから、その苦しいという体験を、わたしは見つめる。
 
ただその方の望むことは、
ありのままの自分を受け入れてもらいたいということ

自分の選択を正しいと信じたい。
そしてこの苦しいに寄り添ってもらいたい、のだ。

わたしも共に苦しんでいた時も
もちろんこの思いがわかっていた。

でも、それを受け入れるには
わたし自身の器が必要だった。

その人をありのまま、
そこにいるをゆるすことのできる、強さであり優しさが。


そうに感じられる今、昔より成長したらしい。
 

そして、
その方のたましいが納得したとき、
身体の限界がきたとき
麻薬も使うこともゆるしだし、
死という区切りも一つのゆるし、と感じる。

「末期患者には、激励は酷で、善意は悲しい、説法も言葉もいらない。きれいな青空のような瞳をした、すきとおった風のような人が、そばにいるだけでいい。(納棺符日記 青木新門 著)」

帯津先生はよくこの言葉を伝えてくれる。
本当に、これ。

私たち、寄り添う人は、ただこうあればいい。
 
今日は、ただただ、
その方が頑張って車椅子に乗るのを待つ。
「どうしてこんなに苦しくなるんだろう」に対して、
お腹が膨らんで圧迫されて肺が半分くらいしか働けないからだよ、と伝える。

背中をさする。
飲める薬を飲むのを手伝う。
飲めなくたって、飲めたものもあるからよしとしましょうと伝える。

そんなことをしていた。

 
起きる力がなくなっていくこと
飲めていた薬が飲めなくなること
顔が洗えなくなること
車椅子に座ろうとするだけで苦しくなること
 
そんな状況がどんなに不安だろう。

わたしは分かり得ることはできないけど
その方が「体験している」をヒカリにつながって見つめる。

それができるだけで、
そのかたも、わたしも救われる。
 
今日は、そんないのちに寄り添うを感じた一日。

 

_________________

いのちに寄り添うホリスティックヘルス塾です〜!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?