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インド旅行記_世話をされる

<インド旅行記第三弾・世話をされる>
インドのアーユルヴェーダ病院で1ヶ月にわたる浄化療法(パンチャカルマ)を受ける中で、すっかり「世話をされる」ことが板についてきた。

ドシドシ部屋に入ってきて、毎日同じ手順で床をはき、モップでふき、トイレ・風呂をザーっと洗って綺麗にしてくれる。その2人が去った後はちょっとした嵐が去った気分で、風雨で洗い流された世界がリセットされている。

もはやノックもせず、スッとドアを開け、水筒を取り替えるマウシー。私がパンツ一丁でうろついていて、あ、ちょっと服着るからまって、とまごついていても、向こうは何にも動じない。読み取れない表情は、かすかに微笑んでいる? 私が服を着ていても着ていなくても何にも変わらないマウシーの様子をみると、なぜ私はパンツ一丁だからとうろたえるのか?と、我に返る。

最初の頃は身の回りの世話をしてくれる人達に気を遣って疲れていた。自分の身の回りのことは自分でやる、ということが染み付いていたので、他の人にシーツ交換をしてもらったり、食器を洗ってもらったり、掃除してもらったりり、という世話をただそのまま受けるのが居心地悪く、お尻がムズムズしていた。

ある時散歩からもどったら部屋の前に替えのシーツが置いてあったので、自分でシーツ交換をした。すると、あとから部屋に来たスタッフが替え終わったシーツを見て「あれ、誰かシーツ交換しに来た?」という。私が交換したというと彼女は少し慌てた様子で「あなたはやらなくてよかったのよ」ということをいう。私がシーツを替えることは、患者/看護者の線引きを少し揺らすものだったようだ。このあたりから、ここでの自分の本分は患者だ、と考えるようになった。

そんなこんなで、最初の数日は「世話を受ける」ということの新鮮さを味わっていたが、パンチャカルマが本格化するとそんなアレコレを考えている余裕はなくなってくる。最初の1週間はオイルやら何かドロドロしたものを浣腸で大腸に送り込むバスティというデトックス療法。なされるがままに肛門から何かよく分からないものが注入され始めるやいなや「出したい、出したい、出したい、出したい」と体が猛烈に訴えるのを我慢して注入が終わるのを待つ。すぐにトイレにかけこみ、出てくるものを出すが、何が起きているのか、脳みそは処理しきれない。

私の大腸はどうなってしまうのだろう、とぐったりしているときに掃除隊が嵐のようにやってきても、前みたいに気を遣ったり愛想を振り撒いたりする余裕がない。嵐のように去った後は部屋がさっぱり綺麗になっていて、少し気持ちもさっぱりしている。

調子がイマイチだったりぐったりしているときほど、身の回りの手入れが効くということが入院中は身に染みてわかった。掃除されて床がさっぱりしていると、シーツが新しくパリッとなっていると、シャワーを浴びて洗い立てのタオルで体をふき、さっぱり洗われた服に着替えると、体も心も立ち直ってくる。ケアには、威力がある。入院中は、身の回りのすべてのケアが病院から提供されることはただのサービスではなく、治療の一部なのだと実感した。

調子がいい時も、ぐったりしているときも、こちらがどんな状態でも変わらず、毎日の、毎回の世話を淡々と提供する病院の人たちは、ケアギバーのプロだった。その距離感がとてもとてもちょうど良く、世話をしてもらうということがうまくなった私なのでした。

そして身の回りの手入れの威力を思い知った私は、インド滞在中に心地よかった手入れを日本に帰ってからも続けている。世話を受けるのがうまくなると、自分の世話もうまくなる。

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