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私が絵を描くときに大事にしていること

noteに文章を書き始めて、(自分の中では)怒涛の勢いでアウトプットしていたのだが、少し間が空いた。

今までの「書きたい」という思いは「吐き出したい」とも似ていて、それが時に丑三つ時であろうとも、勢いをつけてダカダカッと書いて、書いて、書いて、『公開』ボタンを押して、ひと息つく、といった具合。
頭の中では(夜は寝ないと。からだだいじでしょう)と、あやこA。あやこBも、(仕事に差し支えるよ。いい大人なのに)と言っている。まるで熱に浮かされたようだったな。

それがポカリと空いた間、私はひとりじっくりと、えもいわれぬ感情を味わっていた。自分が、卵を抱く鳥のように、ずっと、じっと温めている想いの正体が、分かったからだ。
分かった今、高く晴れ渡る空のように爽快な気分なので、このサムネイル。
いい写真だな。

正体に気づいたきっかけ

ある案件で、私は小さなカットを何点か描いた。
使われるときには、3センチとか、4センチ大になるものだ。だから、その取引先では、カットは大きさによって価格が定められている。

一番最初に仕事を受けたとき、大きさによって価格が決められていることを、『そういうものかな』と深く考えなかった。
私はいつもそうだ。
最初にジャッジをしないのだ。深く考えずに、(一度やってみてから判断しよう)と、一度目をお試し、体験だととらえている。

試してみて、分かったこと。
私、大きさで価格を決めるやり方に向いてない。

どういうことかというと。
相手の予算に合わせて、労力を調節することができないのだ。
自分の中にどうしても譲れないものがあって、最大限、書き込んでしまう。3センチ、4センチ大の中に、複雑なポーズ(しかも複数人で、人と人の関わりを表すポーズ)や、背景もパースを取って入れる。
そこに、相手からの修正依頼が来た時。
どうしても譲れないものに照らし合わせて、やりたくないと思う。
逆に、相手が何も言ってない部分も、どうしても譲れないものに照らし合わせて自発的に直すことがある。
根拠はいつもひとつなのに、行動がアンビバレントだったのだ。

今までは、その『どうしても譲れないもの』の存在に気づかなくて、(実は本心でその価格が割りに合わないと思っていたから、修正依頼が嫌だと感じてしまうのだろうか)とか、(私は完璧主義だから、言われなくても自発的に直してしまうのかな)とか思っていた。
そんでもって、自分ダメだなぁ、という所に着地させていた。

違った。

私の『どうしても譲れないもの』は、納得だった。


私は『納得』を大事にしたい

私はイラストレーターだ。相手(クライアント)の依頼に応じて、イラストを描く。
相手の『これを伝えたい』を受けて、考え始めるのだ。
相手の立場と、受け手(イラスト含め、形になった想いを見る人および伝えたい人)の立場を行ったり来たりして、構図を決め、必要なものを描き込んでいく。
またやで。
また、そこに『I』を消している。しかも中途半端に。

※参考文献『I』が消える現象

だけど、私は本当は、自分の納得を一番、大事にしたいのだ。
絵を描いていて、『これだ』と確信を感じる瞬間がある。完成した後も、自分で何度でも、見返す。線を見たり色を見たり、じっくり味わう感じ。
不思議なことにそういう絵は、相手にも受け手にも好評で、『伝わった』喜びもひとしおである。

今まで私はその『これだ』を、天啓のように、降ってくるものだと思っていて。
どうしたらその確率を上げられるだろうか、という考え方をしていた。

違う違う。
それは天啓ではなくて、納得だ。
自分が納得できることが、私には一番、重要だったのだ。


途端に過去のアレコレが、符号し始める

私がささやかな事でも、深掘りしていくのは、研究者肌だからでは無い。
自分の納得が得られるまで、手離せないし、手離したくないからだ。

納得するまでは(その場で許されるなら)角度を変えて質問してしまうし、納得したらサッパリして、思い悩むこともない。
私にとって納得する、というのは、精神的に、あるべきものをあるべきところに収めて(納めての方か?)いくことだ。

自分が納得を大事に、そこから出発し、そこを目的に生きているのだと分かったからには、これから行うことはとてもシンプルになる。
納得を思う存分、表現にぶつけること。
依頼に対して、説明すること。
自分のイラストは、納得を大事に創っていること、納得という価値を持ったイラストだから、価格交渉もその価値に照らし合わせて行いたい、と。

大きさが価格を決める、ひとつの判断材料になるのはいいと思う。
だけど私の納得は、人物の造形を目で見たまま素直に描くとこうなるよね、と丁寧に描くことであったり(例えば走るポーズ:目で見たまま描くのと、頭で描くのと、高度にデフォルメするのは全然違うよ)、奥行きや、物語を伝えるためなら背景を描き込むこともいとわない姿勢である。

なぜ人物の造形を目で見たまま素直に描きたいのかというと、そうやって丁寧にポーズをとっていくと、人物に命が吹き込まれ、その世界で動き出すようだと、自分は感じているからだ。

納得のいくものは、引っかかりもなく、スウッと私の中に収まる。

私はそれを追究したいし、
それが、私の価値だ。

私の価値。それを一番に伝えなくてはいけなかったんだ。
改めてもう一度、胸襟を開いて話し合いたい、と伝えなくては。
あなたは何を一番大事に、納得の元に描く私に、イラストを依頼したいのですか?と、問わなくては。

相手が3、4センチの大きさで使うことを一番にするのなら、残念ながら私は力不足だ。うまく描ける方にお願いして、私は、必要なものを全部描くことができるフィールドを探して、移動しようと思う。


ようやく私も自分をbeで語れるだろうか

そうか、納得か、私が大事に温めていた卵は、納得だったのか。
…と、ひとりじっくりと、えもいわれぬ感情を味わっていたとき、飛び込んできたタイトル。

beの肩書きワークショップ!

自分らしさって、分からない。
隠せないものだ、自然と滲み出るものだと言われましてもな。
言葉にできたら、どんなに嬉しいことだろう。
あぁ、興味ある。

…と思ううちに、やはりこれを出したいー!という想いが募り、ここまでツラツラと書いてしまったぞ。

頭の中のあやこCが、言っている。
納得いくまで書けてよかったなぁ。スッキリしたろ。はよ寝や。

おやすみなさい😴

ありがとうございます!自分も楽しく、見る人も楽しませる、よい絵を描く糧にさせていただきます!