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過去は曲に切り込まれ救われるのは自分である

Instagramには、今日も惚気が駆け巡る。

私は張り合ってしまう。私も凄いんだぞ、私はお前よりも活躍してるし音楽も出来る、ギターも弾ける、こんなにライブもしてるんだぞ!って、不必要な闘いを自分の中で繰り返す。

ただひたすらに生きていきたいだけなのに、他人に干渉された気になって心を自殺するのは、非常に馬鹿馬鹿しくて悲しい。人の生き死にを操るのは人であってはならない。だから自分で自分を一番愛さねばならない。死にたいと思う時間は山ほどあり、試み、そしてその度蘇生した。時間がかかってもいいから、その底無し沼から自力で這い上がってみろと別の自分に言われた気がして、それから自分との闘いが始まっていた。きっと死ぬまで私は幼稚である。死人が一番偉いとかありえないし。生きてる人間、こうして字を読み歌を歌いモノを食う私らが一番尊いのだ。生きるというその膨大な分岐点を秘めた選択肢よりも、自分で死ぬことを選ぶのは間違いではない。実際私は20年くらい前に自ら亡くなった某女の子に追悼の意味で、大丈夫だよもう安心してねとインターネット上に書き残したことがある。死は過ちなんかではない。けれど正解でもない。人の生き死には操ってはいけない。ただ私は、どちらかと言うと生きることに焦点を当てて、しかし生きられないこの醜い葛藤と理不尽の世相と戦闘するための音楽を毎日作っている。これはもしかしたら、私のためだ。今も苦しんでる誰かを救うために、とか言って作ってたりするけど実は自分が一番救われたいのだ。その場、その一瞬の最善で私たちは生きていけるのが、それが幸せなのではないかと思う。憧れ過ぎて嫌いになったシンガーの代表曲がさっきからずうっと頭に流れる。どいつもこいつもこの歌を歌う。憎んでも仕方ない過去にぶつけるしかない感情、それこそ、私の最も求める音楽の本質的な部分であることを、ここに書き記す。

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