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学んで実践を繰り返す―上昇スパイラルの中毒性

 秋生まれの私は、小学4年くらいまで勉強も運動も「なんとなく遅れ気味な子ども」でした。成長に差があることを知らなかった私は、「なんでできないんだろう」といつもクエスチョン。しかし、小学5年生からバレーボール部に入部したことがきっかけで、練習をいっぱいすればみんなより上手になることに気づきました。男尊女卑が根強く残り、出る杭は打たれる田舎で生まれ育ったため、この気づきは私らしく生きるためのスキルの一つとなりました。

なんとなく言っちゃった将来の展望

 高校生の時、授業中に将来の展望を一人ずつ発表する機会がありました。私は「高校を卒業したら、短大に進学して、次に専門学校で技術を身に付けて働きたいです」と言いました。当時の女子は大学進学率が低く、短大卒後に就職する人が多かったのもありますが、ほぼ思いつきでした。そして、その発言をしている私を教室の後ろから客観的に眺めている自分がいた、という不思議な記憶があります。

現実化してしまった思いつき発言

 友達に一緒に受験しようと誘われた短大。その短大にしか合格しなかったんです。専攻したのは英語で、勉強も英語も好きだったわけでもなく。英語ができれば仕事に就きやすいかなぐらいの気持ちで選んだ進路でした。
 短大卒業後に実家に戻り、縁故採用で事務職の仕事に就きましたが、どうにも嫌で2か月で退職しました。洋服とかオシャレな生活が大好きで、ショップで洋服を売りたかったんです。両親ともに嘆き悲しみましたが、「私はこんなことをして毎日を過ごしたくない!」なんて、えらそうなことを言って、ブティックで働き始めました。
 ブティックの先輩からの運命の一言「なんで英語の仕事をしないの?」
意表を突かれた質問に私は「えっ?だって、私、英語できないから」
それを聞いた先輩は大きく目を見開いて「でも、私たちより英語できるでしょ?」
 
 あー!そうだよね。私、英文科出てるから。じゃあ、勉強しなおそうかな!

 一年間のフリーター生活のあと、地元の公立専門学校に入学して英語を学ぶことになりました。

同級生は3歳年下

 「あなたのような人が勉強できるのですか?」
専門学校の面接試験で、校長先生から私に投げかけられた質問です。「はい、やる気は人一倍あるんですよ、校長先生!」と言いたいところでしたが、「はい、できます!」としか答えられませんでした。当時ブティックで私が売っていた、飛び切りオシャレなスーツと濃い目の化粧で決めたつもりの私は、清楚な高卒同級生プラス3歳で、その質問を聞いて初めて場違いな服で試験を受けたことに気づきました。案の定、入試に落ちました。しかし、その数日後に補欠合格の連絡がありました。短大も補欠合格で、同級生より学力も人間力も低めだったので、専門学校の入学が決まっても不安しかありませんでした。

 親と相談して、学費は自分で払うという約束で2年間の学生生活をスタートしました。「2年後に英語で人生を変えてやる!」という、根拠のない目標を胸に。

入学してみたら

 入学してすぐにテストがあり、3クラスに分けられました。なんと私はトップレベルのクラスに振り分けられました。言葉には出しませんでしたが、「校長先生、私の英語力は高かったってことですよね。服装は派手でしたが」と一気に自己肯定感が高くなりました。
 しかし、これが私の学生生活に良くも悪くも大きな影響を与えるものになりました。授業では英文科で勉強したことを繰り返して学ぶことになることも多く、英会話力や英作文力、読解力など、最初から同級生のレベルを上回るスキルがありました。それを知った時に現実的な目標が見えてきました。

一番で卒業する

そのために何をしたのか?
・毎日の睡眠時間は4時間で十分
・声が枯れるまで音読、暗唱する
・夏休みも毎日学校で自習する

 これを1年間続けました。英語力は学年でトップレベルで成績は1番。同級生や先生たちからも一目置かれて、調子に乗ってました。若かったので、体調を崩すこともなく、元気に過ごしていました。
 しかし、勉強したい気持ちでいっぱいで、学費のためのバイトを辞めてしまい、親に学費とお小遣いのおねだりをしたところ、約束が違うと怒られました。親子といえども、約束は約束ですから。いい加減な私もさすがに反省して、結果を出そうと気を引き締めました。

憧れの英会話スクールに入社

 専門学校の卒業を控えたまだ寒い日に、某英会話スクールから「非常勤講師」の内定連絡がありました。非常勤でも掴んだチャンスを離したくなかったので、快諾しました。

 私の教育業界でのキャリアは、このスクールからスタートしました。専門学校で学んだことは英会話だけでなく、「英会話と話すための英文法の練習方法」と「英語らしい文章の書き方」などで、これらの経験が直接生かせたのが、日本人に英会話を教える講師の仕事でした。最初は英語のレベルも低く、先輩たちに追いつくだけで大変でしたが、職場が水にあったようで、半年後には主任講師として仕事を任されるようになりました。

 そして、その半年後にはアシスタントマネージャーに昇格し、その半年後にはマネージャーとして一校を取りまとめる仕事に就くことになりました。しかし、マネージャーの仕事は英語ができるだけでは務まらず、日々苦悩と勉強。楽しいこともあり、辛くて病むこともあり。マネージメント業務が「数字を追いかける楽しさ」から「数字に追われる辛さ」に変わった時に退職しました。

⦅退職するときに考えていたこと⦆
努力をすれば自分の描いた新しい自分に近づける。そして、新しい自分になってから努力すれば、また思い描いた新しい自分に近づける。だから、私はこの会社に笑顔で「ありがとう、さようなら」と言って、退職しよう!

これまでの私とこれからの私

 結婚、出産、専業主婦、職場復帰、繰り返しの転職と、忙しく生きてきました。でも、学びを止めたことはありません。どんなシチュエーションでも、最高の結果を残すためには学びは必要だと思っているからです。
 就きたい仕事があれば、その仕事に就くための資格をまず調べて取得しました。たとえば、大学に編入して卒業すること。この時に出身高校に卒業証明書をもらいに行くと、当時の担任と話すことができました。また、別の大学に編入するときには専門学校の先生方と話すこともできました。当時の私を知る先生方と話すことは、自分を振り返ることと先生方のお気持ちを知ることになり、「絶対に頑張ろう」とテンションが上がりました。
 そして、就きたかった仕事に就いて仕事をしていると、次のやってみたい仕事が出てくるわけで。取った資格は、PC関係、ファイナンシャルプランニング技能士、簿記、整理収納アドバイザー、児童英語インストラクター、保育士など。履歴書も職務経歴書も埋め尽くされて、面接で敬遠されることもありますが、過大評価されることもあります。想定外だったと解雇宣告されたこともあります。

 しかし、楽しいんです!学んで新しい世界に飛び込むことが!

若いころから変わり者でした。そして、還暦近くになっても落ち着くことはありません。学べば変わるし、スモールステップの目標なら達成は難しくないと考えています。
 noteは、25歳の息子から勧められて書き始めました。「テーマは『学びは一生』とにかく書きなさい」と言われて。私の生き方を理解しサポートしてくれる家族と、私の転職話を楽しく聞いてくれる、転職するたびに増える友達がいるから、学び続けます。
 今私は、児童発達支援・放課後等デイサービスで個別療育の先生をしています。そして、感覚統合やABAなどを日々学んでいます。隙間に英語の勉強も続けています。次の目標は学びと業務の先に見えてくるでしょう。その時が不安でもあり、楽しみでもあります。

#私の学び直し


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