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遠足のあと

「旅行から帰ると寂しい」と試しに検索してみると「どうすればいいですか?」といった質問とその答えのようなものが列挙されてくる。小学生のとき、遠足後の解散が寂しくて仕方なかった。といっても、遠足がとても楽しく充実して幸せだった、とか、親しい仲間とまたすぐ明日会いたい、というのでもなかった気がする。行き先は大山乳業の工場とか境港の漁港とかで胸踊るものではなかったし、行きのバスでは窓の向こうに変な看板を見つけてはただそれを口に出し、帰りのバスでは会話もなく寝ていたようにも思う。それが、バスが学校に到着して、校庭を横切ってそれぞれ家路に着く夕方には無性に寂しくて悲しくなっている。誰かに会いたいのだけれど特定の誰かに会いたいのではない。家に帰ってもその時間にはまだ誰もおらず、自分ひとり。流されたのだ、流れていったのだ。特別な時間、とかでもない、帰る家のある一人ひとりが一緒に行って帰ってくるあいだの時間が漂流教室のように丸ごとどこかに流されて消えってしまって戻ってこなくて、みんなどこかに行ってしまった。相対的に自分ひとりが帰ってきた。あるときそのことにどうしても耐えられず、同じクラスでもない近所の同級生のK君の自宅に遠足後すぐに行ったことがある。誰かがいるのを確かめたくて。ガラッと引き戸を開けると、遠足で疲れたのかK君は玄関の畳の台の上で仰向けになって堂々と寝ていた。夕方の光を受けて。われ関せずの勢いで。それがなんだか眩しくて、自分がとても恥ずかしくなった。大人になって、それとは違うかたちで旅行のあと寂しい気持ちになったとき、あの仰向け姿が頭をよぎる。というより、あのシーンを思い出すことで感傷的な心を抑えようとしているのかもしれない。“In my younger and more vulnerable years”。僕がまだ若くて、いまよりもっと傷つきやすい心を持っていたときの。

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