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語り継ぐべき昭和史

東京湾岸に位置する夢の島に、第五福竜丸展示館がある。

1954年、米国の水爆実験によって23名の第五福竜丸乗組員が被爆し、無線長の久保山愛吉さんが亡くなった。広島、長崎に続く第3の原子力災害であるが、国民の認知度はあまり高くないと感じる。

先日、第五福竜丸展示館にともに訪れたある学生の言葉が忘れられない。

「高校時代、昭和期の歴史は授業時間の関係でそこまで深く教わらなかった。時代順で教わることがほとんどだから、戦後の歴史は短縮されがちではないか」

高校で日本史を選択していたというこの学生は、第五福竜丸の名前は知っていたものの、どのような経緯なのかは知らなかったという。戦国時代や幕末の時間は多くとられていても、そのしわ寄せが、戦後の歴史について学ぶ時間に来るのだと感じた。


同じ昭和史の出来事に、戦時下であった1945年の東京大空襲がある。
3月10日の空襲が語られがちであるが、空襲があったのはこの日に限った話ではない。その事実を筆者が知ったのは、住吉駅から歩いて20分のところにある東京大空襲・戦災資料センターを訪れた時だ。

東京大空襲・戦災資料センター(6月10日 筆者撮影)

東京大空襲の被害に実際に遭われた方のお話を聞いた中で、東京大空襲は3月10日前後にもあり、5月24日、25日の空襲も大規模なものだったと語っていた。長期間にわたっての空襲であったことに驚いた。

また、この東京大空襲・戦災資料センターは、東京の空襲を専門に扱っている唯一の施設なのだという。公立の博物館はなく、この施設は募金によって成り立っている。建物の前には募金者の名が記された石碑が建てられていた。


授業時間数の関係で、短く語られてしまう恐れの高い昭和史。
すべての学校が一概に当てはまるわけではないが、この学校教育の課題こそ、東京大空襲や第五福竜丸といった昭和史について深く知る若者が減っている要因の1つだと思う。

その一方で、このような痛ましい出来事の語り手も、年を重ねるごとに減ってしまう。東京大空襲、第五福竜丸ともにもう80年ほど前の出来事だ。

東京大空襲の被害に実際に遭われた方のお話で、「空襲体験の語り人がどんどん減ってしまっている。今の語り人は女性がほとんど(同センターの場合)」と語っていた。最近では ”伝承者” と呼ばれるような、被害に遭っていないが語り手として活動する取り組みもすすむ。

「凄惨な歴史を知ってほしい」
記憶の風化を食い止めるべく、語り手だけでなく学校側の授業の仕方の改善、私たち1人ひとりの知ろうとする努力が不可欠だ。



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