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すべての手紙を出し終えた日

最後の手紙を出し終えたあとの世界にて珈琲を飲んでいます。手紙を書き続ける日々がとうとう終わってしまった。みんなこの町から出かけて行った。私の呼び声、私の歪な文字の祈りよ。いってらっしゃい。気をつけてね。

書くことで守ってきたこと、書くことで守られていたこと、それから言葉では語り得ないもの。行動は表情は言葉の外にあり、語ろうとする傍から越えられない壁が生む影に立ち尽くしていることに気づかされる。手紙を書き終えたここからは、いよいよ書けないものに向かってゆく。あとはやるだけだ。

私の中にたくさんのひとがいて、きっとたくさんのひとの中に私の端切れが在って、それは取り出されたり埋もれていくけれど、在ることは互いに信じるに値することだと、決して思い上がりや執着ではなく、出会うということはそのようなことであったのだと思い出すために、私は忘れては思い出す度にこうして書く。私というものは他者の存在を内包するひとりであり、私はひとりきりでこんなにもあらゆる町に点在することができる。ほんとうにここから出かけたいなら、ほんとうにひとりきりがくるしいなら、そうした存在の仕方ができるんだよ。あなたが信じなくても、私はそうしたやり方で息を継いできた人間だ。

“1万人と一括りにされたひとたちにも 
1万人分の未来と過去と思想と 
友だちと恋人と家族と 
だいじな思い出と日課とすきな曲があった 
真っ白の帰り道 
今日受けた激流の何倍も何倍もが 
押し寄せてこようとして、途切れた ”

zine『あふるる朝を掬う』(2011)


10年前の春に感じていたことが輪郭を強めてこの冬の日々にある。たった100人のひと、そのひととそのひとの大事なひとが大丈夫であってほしいと願ったとしてそれさえも確実に叶うことではない(たったひとり叶うことも当たり前なんかではない)。感じようとするあまり傷つくことがこれからもっともっと増えるのかもしれない。大きなものへ怒り続けなければいけないのかもしれない。大事なものが増えるってそういうことだろう。だから強くならねば。分別ではなく、私は弱いまま強くなりたい。小さいまま大きくなりたい。耐えられる肉体を携えてあなたのことを見つめていたい。そのように守られてここまで来たから、してもらったことが私にもできると信じたい。

書いた言葉は私のすこし先にいる。
ここはもうじき春になる。

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