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3月の上澄み(甘じょっぱい)

人生がひとつの本だとして、自分のそれが何のジャンルに分類されるかがうっすらわかってきたような気がしながら歩いていたら、いつのまにか春のあかるみに辿り着いていた。
わかりたいのに読めない。明かしたいのに書けない。ここに来て一層この世が観光地然として瞬いてみせる。ようやく住み慣れてきた地でもう一度、言葉を失うということ。割り切れなさからはじまるものでしか越えられないものがあると信じている。

空を振り仰ぎ、後ろを振り返り、手のひらを眺め、見えざるオーディエンスに視線を送り返すような気持ちですごす。宇宙のにぎわいが春の鳥の歌みたくここまで聴こえる。
お世話になっている神さまへ挨拶へゆく。
まだどんな言葉にも渡せないままのかたまりでも受け止めてくれるのは、やはり言葉を話さないものだけだ。くしゃくしゃに撫でられているような心地に泣きそうになる。ここが思わば思はるるの世界なら、わたしはこんな風に書くよ。

内側で弛緩するものと理解という強ばりを得たものが同じテーブルに着く。
たとえどんなに話が噛み合わなくても、その食事は幸福だ。美味しいと口々に言うあいだはふたつはひとつ、同じよろこびにふるえている。
これからわたしという屋根下にて、道行くことの難しさに何度も悩み投げ出したくなるだろう。自分のくだらなさの中に生きるしかないけれど、せめてその中でたくさんあそぼう。逃げ出せる才を持たないわたしはここでじゅうにぶん愚かしく在ろうと思う。

この世のひみつがわかってしまったかもしれない。
だけど、それが一生明かされることはなかったかもしれない人生からの訴えもまだ大事に抱えている。
(でも、「いつかわかるよ」といろんなひとに教えてもらった道の先に今があることを認めると、同じ言葉で託したい気持ちが自然と湧き上がる)

いずれにせよ、かもしれないと思えただけでもいいのかもしれない。
うれしいこの星のお土産として大事に思う。
今はまだ掬い取れないこの眺めをいつか言葉にできますように。

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