〖余談〗の時間 その十



  ではどうして私が脱サラして店を始めたのか、それはタコの旨み(味)を知ったのがきっかけでした。そのエピソードです。ノンフィクションです。


京都生まれ大阪育ち、就職も大阪、私は頭のてっぺんから足の指先まで関西人でした。しかし1990年、28歳の頃、とある企業からハンティングされた私は、関西を離れ九州の福岡市に移住することになりました。その地でできた友人たちとの何気ない会話の中でした。

「大阪の人の家には絶対タコヤキ用の丸穴鍋があるって本当?」

最近はあまり聞かなくなりましたが、その頃はよく話題になっていたことです。実際には当時の統計(誰が調べたのかは覚えていない)で約7割の家庭にあったそうで、そのことを皆に伝えた後、

「いや... 実は持ってきている。」

そう、大阪から福岡に引っ越してきた際、料理好きな私の荷物にはタコヤキの道具が一式あったのです。そうなれば話は自然に

「タコヤキパーティーやろう!!」

となり、一週間後に友人達の中でも比較的広いマンションに住む男性の部屋に10人弱が集まることになりました。もちろん料理の一切の準備をするのは基本的に私1人。なかなかの分量ですから大忙しです。また、こういうシチュエーションでは至極張り切る性格なので、特に主役のタコをどうしてやろうかと考えていたところ...

『そうだ!! あそこに行ってみよう。』

私が思いついた場所は西鉄天神駅から約1km、那珂川沿いにある柳橋連合市場でした。東京の築地、大阪の木津や黒門、京都の錦、広島の猿猴橋、下関の唐戸、金沢の近江市場など。いわゆる地域の『台所』と呼ばれるところです。ここに書いていないだけで全国津々浦々、ある程度の大きさの港のある土地では、観光客向けであったりするもののたくさんあります。そして柳橋連合市場は一般人でも購入ができる類でしたから私はさっそく車を走らせました。

何ともノスタルジーを感じる狭い通路とひしめく店舗。今の若い人に言わせれば『昭和っぽい』のかな? メインは魚屋なのに乾物や野菜を売る店、中には素人には何の店か不明の店もあります。この雰囲気は全国の古い市場共通です。そして目当てのタコはどうか... な... と... 物色します。魚屋は多くありますが、それぞれの店には専門の傾向があります。高級魚専門、海老と蟹専門、干物専門、貝類専門と言った具合です。もちろん魚介類全般の店もありますが、やっぱりタコを多く扱っているところを見つけたい。迷路のような市場の中をグルッと一周以上して店を決めました。

奥から前方に少し傾斜している商品台には氷と魚、そしてタコが並んでいました。タコの陳列は胴を下に足(腕)を上にと吸盤が見える形です、そう逆さまの状態です。その方が見栄えするのでしょう。7~8ハイはあったでしょうか、大きさも大小揃っていました。その中で重さにすると1200gくらいかな、ちょっと大きめのものを指さし店員さんに値段を聞きます。

「これはいくらですか?」

店員さんはそのタコをグイっと持ち上げ、秤に乗せ重さを確かめて、

「3800円です。」

これはなかなか... 100gあたり316.66666666666666666円です。当時スーパーで売っている茹でタコが100gあたり7~80円前後でしたから約4倍です。ただ、その頃の私は独身サラリーマン。酒もお付き合い程度、賭け事もせず、休日はテニスサークル及び波止場専門のお金をかけない釣りに興じるくらいの生活なので、自由に使えるお金に困っている訳ではありません。私は躊躇うことなくそれを注文しました。何より近海物で新鮮であることは間違いないですから。

「スミ抜きしますか?」

「あっ... はい...。」

実はよくわからなかったのですが、ついつい勢いで返事してしまいました。その後の店員さんの仕事を見ていると... つまり...

『内臓を捨てて塩揉みもやっちゃいますか?』

ということでした。内臓も食べられるところが多く、レアな珍味の部位があるので、今思えば勿体ないことですが、知識のないその時の選択としては仕方ありません。店員さんは慣れた手つきで胴体の中身を切り落とし、残った本体を大きなザルに入れ、塩を大雑把に振り掛け調理台の上で勢いよくザルを回し始めます。そうすると塩はタコのヌメリを吸って、時間と共にたっぷりの粘りのある泡になりました。全工程で5分くらいだったでしょうか、後は水で泡を洗い流しビニール袋に入れ口を縛り完了です。氷と共にクーラーボックスで持ち帰り、自宅で再度水洗いをして冷蔵庫に入れて明日の本番を待ちます。これで前日までの準備はすべて完了です。

 次の日。タコパ当日、友人男性のマンションに到着。タコヤキ用道具一式はもちろん、タコ茹で用の大鍋やザル、包丁まで持参します。一般的に一人暮らしの男性サラリーマンはそんなにたくさんの調理用具は必要ないでしょう。しかし私は違いました。フライパン、中華鍋、煮込み用など鍋だけでも10個以上持っていましたので、道具はほとんど持参です。まるで出張料理人です。

 準備はというと、生地(小麦粉と出し汁)は昨夜のうちに混ぜて冷蔵庫で寝かせていたので大きな作業としてはタコを茹でて切るくらいです。(この『寝かせる』という作業と時間はとても大事です。口当たり、触感が全く違ってきます。いわゆる『粉っぽさ』にも係わってきます。祭りの屋台をはじめ巷のタコヤキ屋では『その場で小麦粉を水で溶いて、その直後に焼いている』という現場をよく見かけます。屋台はまだ仕方がないとしても店舗ならそのくらいの用意はして欲しいものです。)そして他の準備、ソース、削りカツオ、青のり、天かす(関東では揚げ玉と言うんですね、大阪と違って上品なネーミングですねぇ...)、干サクラ海老を用意したり、皿を並べたりするのは到着したメンバーが手分けして行います。でも、やっぱり男達は役に立ちません。邪魔にならないよう女子から命令され、おとなしくしているしかありません。女子の中には女子力をアピールする機会と思っているのか... 実力以上に張り切っている者もいてなかなか面白いものです。若い独身男女が10人程、もちろん色恋沙汰も少し反映された空間ですから必死になる女子の気持ちも理解できます。こういう集まりはこのような事情とプロセスこそが本当の楽しみかもしれないですね。そうそう、女性は24歳で結婚するのが理想、30代になると『負け犬』なんて言われていた時代でしたからね。彼女たちにとっては戦場だったのかもしれません。実際そのメンバーの中に数か月後結婚したカップルもいました。私は愛のキューピッドだったとも言えます。因みに、今は知りませんが当時の福岡市中心部で働く一人暮らしの女性の多くは近郊の県、つまり佐賀、長崎、大分といった九州北部から来ている人が多かった印象があります。熊本や鹿児島はある程度就職口が見込めるので福岡にはそれ程来ないなんて聞いたこともあります。


 そうこうしているとメインのタコが茹で上がります。加減はレア気味のミディアム。何となく

『そうした方が美味しいのでは...。』

と思っただけです。今の私なら『生』を使いますが当時はその境地には至っていません。それでも完全な素人だった私がレア気味のミディアムにしていたことは素晴らしい。タコの旨味を活かすという点で、当時の私を褒めてもいいでしょう。そしてちょっと切り分けたものを味見すると... これは...。皆にも一つずつ...。

「なんじゃこれわぁぁぁぁっ!!」

当に今まで経験したことのないタコの美味しさを感じた瞬間でした。

『もう一つ、もう一つ』

と要求してくるハイエナ化した獣たちに

「タコヤキ用の分が無くなってしまうだろうがっ!!」

っと一喝し、その場を沈静化することに成功しました。そしてまな板に戻り残りのタコを切りますが、手伝い中の女の子だけにこっそりタコを与えます。小声で、

「野郎どもには内緒...。」

こうして私だけが他の男どもを他所に、小さなハーレムを持つことに成功したのでした。

 さて準備も完了し、いよいよタコパの本番がスタートです。鍋を熱し、油を塗り、煙が出始めたところで一旦火を切ります。少し冷めたらティッシュで油をふき取ります。この作業は鉄板に油の幕をつくり焦げ付かないようにする基本中の基本です。再度火を点けて油を塗り、生地を流し、タコ、桜エビ、天かすと材料を入れます。さてここで、

『どうしてネギが入ってないの?』

と思った方も多いでしょう。鍋の上が緑色一色になるほど大量のネギを乗せるようなネギ好きの人も多いですね。ただ、これも私の考えなんですがネギはその独特の味と香りが強すぎるので、タコの柔らかい旨味を消してしまいかねません。硬く茹でられて旨味エキスの抜けたタコならともかく、繊細なアミノ酸系の旨味と合わせる場合は注意したほうがいいと考えます。


やがて丸い穴の淵の生地が少し盛り上がり、艶のない白に色が変わればひっくり返すタイミングです。私が軽くレクチャーすると、後は女子たちの出番です。千枚通し、いわゆるタコピンは2本しかないので、女子たちが代わるがわるそれを手に取り、あーだ、こーだと言いながら作業をします。やがて男の中にも興味を持ち、

「ちょっとやりたい。」

と言う者が現れます。そこでやっと男達も存在感を取り戻し、全員一丸となってタコパは進行していきました。

 そして第一回の完成。焼き上がりです。20穴、20個。一人2個ずつを皿に盛り、ソース、カツオ粉、青のりをトッピング。そしてその間にも時間を空けることなく、油、生地、タコ...etcと、次の調理も同時進行です。女子がにこやかに紙コップにビールを注ぎます。どの女子がどの男子に注ぐのかも暗黙のルールの中。

「カンパーイッ!!」

ビールを飲み、少しだけ冷ましてからタコヤキに襲いかかります。爪楊枝ではなくお箸でいただきます。その方がゆっくり味わえますから。予想通りまだアツアツですがなんとか大丈夫。しばらくハフハフした後、ゆっくりと噛み始めます。皆も同じで無口、『ハフハフ音』と『小さな咀嚼音』だけがその場に存在していました。やがて...

『じゅじゅぅぅぅ... っわぁぁぁ...』

と予想外のジューシーな液体が溢れてきました。それはタコから出てきたエキス。

「ナニコレッ美味しいぃぃぃっ!!」

メンバー皆はもちろん。私にも初めての経験。感動。今までのタコヤキの印象をすべて変えてしまう出来栄えでした。私に向け拍手喝采が起こります。最上級の誉め言葉が飛び交います。場の雰囲気は最高潮。2個目のタコヤキも平らげビールも皆でお代わり。再度

「カンパーイッ!!」

そうなれば、当然第2回目の焼き上がりが待ち遠しい。タコピンを持ったものは自然と気持ちを込め調理をします。そして出来上がり。またすぐに3回目の準備も始まります。皿に並べられたタコヤキは鉄板が程よく熱を蓄積したせいか、前回よりも肌がキレイに見えました。たった2回とは言え、調理の要領も良くなったせいかも知れません。そしてソースを塗ろうとしたところ、一人の女子が、

「私このまま食べてみたい。」

と言いました。

「...。」

確かにそれは面白いかもしれない。全員そうすることにして、先程よりもよく冷まして一口で頬張ります。またまた『ハフハフ音』と『小さな咀嚼音』だけの世界です。

「ああ... もう...。」

「タコが... スゴイ。」

「もう... 他のタコヤキ食べられなくなる。」

初回の大騒ぎとは違い、今回は静かに感動に浸っていました。そう、タコの味、旨味はソースがないことで更に明確なインパクトとなっていたのです。また、私は大阪育ちのため既に『ソースなしのタコヤキ』は経験済みですが、九州出身で九州育ちのメンバーには未知のもの。『ソースのないタコヤキ』は想像することすらなかったものでした。

 ひょんなことから開催されたタコヤキパーティー。それは大成功に終わりました。またこの経験は私にとっても大きな発見の機会でした。生のタコ... そのエキスは凄くおいしくてタコヤキの認識を変えてしまうものでした。その後約半年間、リクエストに答え数回のタコパをしました。その後、仕事の関係で福岡を去り広島市に5年住むことになりました。その広島でも私はタコに執着しました。JR広島駅から路面電車で次の駅にある猿猴橋という市場でタコを買いタコヤキの研究を続けます。その頃は既に塩揉みの方法もアレコレと最良の方法を模索していました。やがて大阪に戻り、次は黒門市場に足しげく通い、更に美味しいタコヤキ作りを追及しました。ホントに阿呆です。これが単に趣味の世界でしたからね。でもそれから数年後。

『自分のタコヤキが世間でどう評価されるかな?』

なんて、思ってしまったのがいいのか悪いのか... サラリーマン人生にサヨナラし、生まれ故郷の京都で独立開業を果たしました。37歳になったばかり。1999年の秋でした。

 タコには旨みがたっぷりある。でもそれを知らない人がたくさんいる。だから、

『タコの旨みを活かす店』

それが店のポリシーでした。


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