普通

「普通」という言葉があまり好きではない。


僕が好きではない使い方には二通りあって、一つ目は「普通に好き」である。

「普通」とは「普通」であって、「普通に好き」という用法は存在しないのだ。

「普通に嫌い」という用法が成立しないのは、おそらく解っていただけると思う。

それと同じ理由だ。

好き嫌いの評価を大雑把に分けるとしたら、「好き」「やや好き」「普通」「やや嫌い」「嫌い」となるだろう。

(もちろんdislikeとhateの違いなど、表現方法はあるにしても)


なぜ「普通に好き」などという誤った用法が蔓延っているかというと、

僕は波風が立たず収まりのいい表現だからだと思う。

とりあえず「普通に好き」って言っておけば相手も悪い気はしないし、

多少自分にハマってなくても乗り切れる言葉だからだ。


だけど収まりのいい表現を使っていくことに意味はあるのだろうか?

発展性のない対話ほど退屈で無価値なものはない。

発展性のない対話を楽しむ、という事ももちろんあるが、実はそれは"漫才"なのだ。

かなりの技術を要する、コミュニケーションの上位に立つものだと思う。


相当に親しい者同士であれば取り留めのない会話も楽しかろう。

でも大多数の人間はそうではないのだ。

「普通」の対話など空間を埋める音でしかなく、1枚1,000円で売っているジャズのCDに大きく劣る。

「普通」ではダメなのだ。



二つ目は「普通はこうするから~」というような、一般論を用いる際に出てくる「普通」だ。

こと芸術面に関しては「普通」などという言葉は下の下の評価だ。

少なくとも表現者は「普通」という評価を嫌悪しているはずだ。

「普通」ではないからこそ表現をしているはずだし、「普通」なことをするはずがない。

「普通」の手法を積み重ねれば、出来上がるのは「普通」かそれに劣るものだ。

何か新しいこと、何か変わったこと、何か奇抜なことをしているからこそ、抜きんでた表現になる。

「普通」より劣ればそれは悪手だが、「普通」でしかいられないうちは「普通」なままだ。



さて、ここまで偉そうに書き綴ったことをどう思われるかは分からない。

人の考え方など十人十色なのだ。そしてそれを無理に曲げようとしても意味が無い。

ここに書いてあることは僕が有形化することによって自分なりに整理することと、

これを読んだことによって何らかのプラスになる人がいるのではないか、というだけのことである。


僕の思想に対して反論を抱く人は多いと思うし、それはそれで正しいと思う。

興味深い意見があれば拝聴させていただきたいし、同意見の方がいれば心強い。


だが批判(批評にあらず)だけでは何の価値もない。

そこに発展性が無いから。

それしかできないのは「普通」の人だから。




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