私の百冊 #03 『1973年のピンボール』村上春樹

『1973年のピンボール』村上 春樹 https://www.amazon.co.jp/dp/4062749114/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_eL3MFbX42XBM2 @amazonJPより

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僕の書棚には『1973年のピンボール』(文庫本)が5冊ばかりある。同じ本が(それも廉価でいつでも買える当代随一とも言うべき著名作家の文庫本が)5冊あっても損得などあるはずもない。とは言え場所を占有しているというわけでもないものだから、なんとなく置いてある。実は、いずれも旅先・主張先で購入したものであり、記念に買った土産物の小さな置物なんかが捨てられずに埃を被っている景色と、ちょっと似ていたりする。ただし土産物とは違い、当然みんな同じ顔をして並んでいるから、いつどこで買ったのかの見分けはつかない。残念ながら…。

持って出た本を読み終えてしまったとか、そもそも手持ちの本を忘れて家を出たとか、そんなときに、数年に一度、『1973年のピンボール』を買う。そして、17節を読み終えるところまで読み進めると満足する。スペイン語の講師をしているカタログ・マニアの男との対面シーン――第24刷で言えば138ページのところだ。

「感謝します」/彼は深々とした椅子に背中を沈み込ませ、煙草をふかした。/「ところであなたの『スペースシップ』のベスト・スコアは?」/「十六万五千」/「そりゃ凄い」と彼は表情も変えずに言った。「実に凄い」そしてまた耳を掻いた。

もちろんここに至るまでに好きなシーンがたくさんあり、鼠がピンボール・マシンの点検にやってきた男の技量に絶望的に感嘆するところとか、双子の女の子が着ている服を交換して見分けがつなくなってしまうところとか、配電盤の取り換えにやってきた電話局の男に朝食を御馳走するところとか、挙げて行けばキリがない。しかし、スペイン語の講師をしているカタログ・マニアの男と出会った時点で、実はこの物語はあらかた終わっている。彼が導き手となって幻のピンボール・マシンに再会できることが約束されたからだ。

ちょうど、初恋の女の子は今どこでどうしているのだろう…とふと思い立ち、古い友人に尋ねたりなどして消息が掴めた途端に、訪ねようとする気持ちがすっと消えて行く心の動きに近い。青春の記憶というやつは、きっと「そこまで」がいいところなのだろう。

同時代の日本に生きている多くの人たちと同じように、僕も村上春樹氏の本をずっと読んできた。『1973年のピンボール』が氏の最高傑作だとは思っていない。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『海辺のカフカ』『1Q84』の3作が素晴らしいと思っている。それでもしかし、数年に一度、それも決まって旅先・出張先で、『1973年のピンボール』を買う。だから、持って出た本を読み終えたとか、そもそも本を持って出るのを忘れたとか、この本を買う理由は、たぶんそうしたところにはない。

たぶん僕は、幻のピンボール・マシンを探そうとする語り手の小さな旅を追いかけながら、僕もまた、僕にとっての幻のピンボール・マシンに相当するなにものかを、胸の内で探してみているのだろう。それが見つかっているのかどうかは正直わからない。ただ、確かな導き手であるスペイン語の講師をしているカタログ・マニアの男が登場してきたところで、なんだかちょっとホッとするのだ。まるで、出会いたかったのはピンボール・マシンではなく、この男であったかのように。(綾透)

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