見出し画像

小説家にはなれなかったよ

夢見がちな少年だったころは、小説家になりたかった。物語を描いて、文章を綴って生きていきたかった。あわよくば売れて名誉を手に入れたかった。ここが僕の浅はかなところで、好きな作家たちとの大きな違い。名誉を得る手段としての「夢は小説家です」。格好悪すぎる。でも太宰治にはちょっとそういうフシがある。だからかわいい。

あいにく、僕はセンスと努力と覚悟が足りないまま大人になったので、小説家にはなれなかった。それから紆余曲折あって、コピーライターになった。自分がつむぐ言葉でお金をもらえるなら、それはほとんど小説家だ。十二分に幸せなことかもしれない、と思った。あわよくば名誉を勝ち取れそうな仕事だとも思った。大人になっても浅はかなままだった。

初めて自分の書いたコピーが世に出たときは興奮した。昨日まで何もなかった場所にハンバーガー屋ができているときくらい興奮した。製薬会社の採用サイト。そのトップページに、大きく自分の書いたキャッチコピーが掲載された。

サイトが公開された瞬間にアクセスした。「うお~自分のコピーが世に出てる~!」と思った。何のひねりもない感想。ひねり揚げなら訳アリ品になってしまう。おトク。

あの頃の僕はまだ23歳で、初々しさだけでメシを食べている赤ちゃん社会人だった。なのでとにかく嬉しくて、「僕の書いたコピーが世に出ているよ~!」と家族親戚友人知人に得意げに自慢して回った。本当は道行く人にだって自慢したいくらいだったが、さすがに23歳相応の良識はあったので実行には移さなかった。代わりに道行く猫には自慢した。「僕の書いたコピーが世に出たんだよ」と。猫はうんともすんともニャアとも言わなかったが。

そんな浮かれポンチだった23歳の僕を強く𠮟ったのが、当時の上司だった。

広告は、お前の自己表現の手段じゃない。
お前がすごいんじゃない。肝に銘じろ。

このパンチラインを食らってからもう6年ほど経ったし、その上司とは既に違う職場にいるが、五臓六腑に銘じたので未だに覚えている。そう、広告は決して芸術ではないし、コピーは作品じゃない。僕たちは代弁者であって、表現者じゃない。誰かに自分を認めてもらうために広告をつくるのなら、それはとんだお門違いだ。浮かれていた自分が恥ずかしい。穴があったら入るので埋め立ててほしい。上にはハンバーガー屋を建ててほしい。

コピーライターの仕事は「誰かに代わって書く」ということ。日本語なんて誰でも書けるのに、その仕事を任せてもらえるなんて、贅沢すぎる仕事だと思う。だから、誰より考えて言葉を選ばないといけない。選んだ言葉で、誰かの心を動かさないといけない。でも、自分を認めてもらうために書くのではない。広告主が、商品が、サービスが、社会に認められる。それが僕たちの目的で、それを達成できてはじめて、ひとりでこっそり笑えばいい。

それでも、嬉しい瞬間がある。わかっていても、どうしたって笑ってしまう瞬間がたまにある。それは、同じプロジェクトを進めるメンバーが、コピーを読んで、喜んでくれたときだ。

上司や同僚は、決してエンドユーザーではないし、もちろんクライアントでもない。その人がどれだけ認めてくれたとしても、そこで満足してはいけないことは知っている。でも、自分が懸命に考えて選んだ言葉や書いて消して書いた文章を大事に思ってくれたとき、そのときはどうしたって嬉しくなってしまう。

画像1

これは、上司のアートディレクターから届いたメール。嬉しすぎて、思わず写真を撮ってしまった。23歳の僕なら、この写真を猫に見せていたかもしれない。

拝啓、かわいい少年の僕ちゃん。残念ながら、きみは小説家にはなれない。なぜならセンスと努力と覚悟が足りないまま大人になってしまうから。でも、いい仕事が見つかるよ。安心してくれ。サラリーマンも悪くないよ。

ちなみに22歳のときに一瞬ニートになるけど、なんとかなるから、そのときはゆっくり休んでくれ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?