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落書きのように生きている

仙台市が運営する「仙台クリエイティブ・クラスター・コンソーシアム(SC3)」で、ライターが見出しをしりとりにしてコラムを繋いでいく「ライターバトン」という企画に寄稿したコラムです。
http://www.sendai-c3.jp/features/writer-baton/vol-28/

子供のころ、いたるところに秘密基地を作って遊んでいた。空き地の長い枯れ草を使った、人が一人ようやく入れる小さなもの。空いたビールケースを何個も積み重ねて作った強度の高い設計のもの。捨てられていたテーブルなどの家具を集めて竹やぶの中に充実した楽園を築き上げていたら、他所の家の敷地だと分かり、大人に優しく叱られて楽園計画が頓挫してしまったこともある。

あるいは祖父の家の裏山に、ある日ぽっかりと開いた大穴を発見し、胸をときめかせながらその中へ入って冒険したこともある。何かを発見してしまうと、その先に一体何があるのかとわくわくしてしまう。そしてそこに、自分で何かを作り出したい。思えば絵画やピアノといった習い事も、決められた題材を模写したり弾いたりするのにはすぐに飽きるくせに、スケッチブックに落書きのような出鱈目な絵を書いたり、即興の不恰好な曲を作ったりするのは好きであった。

学校という固定化された集団生活の中で、私たちは規律と抑制を学ぶ。私も例に漏れず、いつしか自分の純粋に好きな気持ちや好奇心に蓋をして、なるべく目立たないように生きた。しかし抑えると逆襲してくるのが感性と好奇心。大学院生の私はある日、公務員試験対策の予備校から帰る渋谷の坂道の途中で、何かが爆発する感覚に襲われて足を止めた。「表現したい」のだと気付いたとき、白黒だった世界が鮮明になって、道端に咲く花とか月の明るさだとか、見落としていたものたちが急に視界に入ってくるようになった。

記者になったのは正解だったと思う。身の回りで起こっているあらゆる問題や、興味のある人や出来事のことを直接聞いて知り学ぶことができ、現場で自分の目で見たこと聞いたこと、感じたことやその空気感を、自分の言葉で表現することができる。当初は新聞記者として赴任したこの東北は特に、私にとってはディズニーランドよりも楽しい、不思議なワンダーランドだった。多彩な文化や風景、人々の生活様式が息づくこの土地を、縦横無尽に冒険して、その歴史的蓄積の上から何かを生み出す。私にはそれがとても魅力的なことに思えるし、住んで6年以上が経つ今も胸が高鳴る。

いつの間にか30歳を過ぎ、経験や知識や技術はおそらく多少なりとも身についた。けれど歳を重ねるごとに、ああなんだか私は、秘密基地を作ったり、謎の穴の中を探検したり、出鱈目な絵を描いたりしていた小さい頃の自分に戻ってきてしまっている。いま会いたい人に会いに行き、行きたい場所に身を置いて、自分の心が赴く方向へ旅をする。きっと精密に計画して模写するデッサンではなく、いま心に思い描く色をただキャンバスにぶつけていくようにしか生きられないのだ。さらに困ったことには、そんな自分が嫌いではない。だから今日も、落書きのように生きている。


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