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ジョン万次郎に会いに行ってみた

こう見ると、なかなかのイケメン。

万次郎が14歳のときの姿だ。鼻筋がスッと伸びて、しっかりとした輪郭の顔立ち。実際にどうだったかを示す資料はない。だからこそ、いい。万次郎はきっと、こんな感じのたくましい少年だったにちがいない。

万次郎は、萬次郎として生まれたけれど、のちにアメリカでジョン・マンと呼ばれ、さらに日本に帰国してからは中浜万次郎になる。いまは、ドラマに登場する場合もふくめて、ジョン万次郎と呼ばれることが多いだろう。

まるで架空の人物のように思われるかもしれないけれど、実在した人物だ。そして、ドラマで描かれる以上に、とてつもなくスゴイ人なんだ。

私が万次郎と「出会った」のは、20年ほど前のこと。私はアメリカに住んでいた。実は、アメリカでも万次郎ファンがけっこういる。本もある。フランクリン・ルーズベルト、ビル・クリントン、バラック・オバマ…といった歴代の大統領は、万次郎が日米友好のシンボルだと信じている。

それくらい、すごい人なんだ。

舞台は、鎖国がつづく幕末の日本。万次郎は土佐の国に生まれた。先輩の漁師4人とともに漁に出た万次郎(14歳)は、嵐にあい、太平洋沖へと流された。数日後、鳥島という無人島に流れつく。

この島、実は東京都。伊豆諸島が東京都であるのと同じだ。東京からほぼまっすぐ南に600キロくらいの場所にある。アホウドリの生息地として知られていて、万次郎たちもアホウドリのおかげで生きのびたと言われている。

高知→東京(鳥島)と移動した万次郎の次の行き先は、なんとハワイだった。いまでいうと、高知龍馬空港から羽田または成田空港経由でホノルルに旅するイメージだろうか。いや、万次郎の場合は、まさに命がけのサバイバル・ジャーニーだ。

無人島で5か月間生きのびただけでもすごい。何しろ太平洋のど真ん中。雨は少なく、常夏の島だ。アホウドリを食べると言っても、来る日も来る日も鳥の肉だけじゃ、飽きるだろう。道具を作って魚を釣っていたかもしれないけれど、資料はない。わかっているのは、発見されたときにはかなり衰弱して腹ペコだったということだ。

ここでちょっと考えてみたい。5か月間、ろくな食糧もないまま、照りつける太陽のもとで暮らすということを。自分だったら耐えられるだろうか。仕方がないから耐えしのぐしかないんだろうけど、もつだろうか。この5か月にわたる無人島生活が、万次郎の人生においていちばん苦しい143日間だったのではないかと思っている。よくぞ、耐えた。

万次郎の人生が鳥島で終わらなかったのは、この人のおかげだ。ただ命を救っただけじゃない。このあと、ハワイに連れていき、その後、アメリカ本土の自宅に招くのだ。このあたりの感覚がいまだにわからない。

たしかに飢えた少年を見つけたら、食べ物くらいわけてあげるのが人情というもの。最寄りの港くらいまでは船に乗せてあげるのも理解できる。でも、異国の漂流民を家族として迎え入れるっていうのは、よっぽど覚悟がいるというか。とにかく、いいヒトに発見されてよかった。

万次郎が次に向かったのは、アメリカ東海岸の港町。私はこの町で、万次郎が通った学校に行ってみた。建物は、当時のままだという。1828年に建てられた当時のまま。ということは、ここに万次郎が通い、勉強したということだ。彼はたしかにここにいた。ちょっと鳥肌が立った。

「万次郎は日本で学校に行ってなかったんです」

そう語ったのは、哲学者の鶴見俊輔さんだ。18年前、私は京都大学の学生会館で鶴見さんに会った。どうやって調べたのか忘れてしまったけれど、鶴見さんの連絡先を見つけて、会いたいですとお願いしたら本当に会ってくれたのだ。いま思えば、ストーカーまがいの行動だ。でも、どうしても会って、万次郎の話を聞きたかった。

取材テープの入った箱に、1時間以上にわたる鶴見さんのインタビュー映像を見つけた。この映像、実は未公開のまま。いつかどこかで、なにかしらの形で発表できたらと思いつつ、10年以上たってしまった。久しぶりに見てみた。

ケラケラと笑いながら「万次郎は偉大な人なんです」と語る鶴見さん。いまごろ、天国で万次郎と会って談笑しているかもしれない。そう思うと、なんだかちょっとゆかいだ。

万次郎が住んでいた町から見える海は、大西洋だ。

私は初めて大西洋を見たとき、なんだかすごく遠くに来たような気がした。そして感動した。同じ海の色だけど、なんかちがう。アトランティック・オーシャン、である。万次郎もこの海を毎日ながめていたのだろう。

万次郎は10年間アメリカで生活したと言われる。でも、この町に実際に住んでいたのは3年だけ。残りは、船の上で過ごしている。捕鯨船だ。アメリカ各地、そして外国から集まってくる船乗りたちとともに、クジラを追った。

鶴見さんは言う。万次郎は、捕鯨船に乗りこむときに、条件にあわない場合はさっさと船を降りたのだ、と。雇う側と雇われる側が対等な立場にあり、契約をむすぶことで初めて雇用関係が成立する、ということを実行したスゴイ日本人だ、と。

漂流から10年。

万次郎は沖縄の海岸に上陸した。その名も、万次郎海岸。数年前に銅像も建てられた。アメリカ東海岸のプリマスという町には、イギリスからの入植者が初上陸した岩場をプリマスロックと名付けて、観光名所になっているけれど、それよりもずっと立派な記念碑だ。ジョン万次郎、上陸の地。

でも、万次郎はなぜ日本に帰ってきたんだろう。話す機会があったら、聞いてみたいとずっと思っている。万次郎が書いた手紙に、「母に会いたくて」と言ってはいるけれど、それが本心だったのか。うそではないと思う。でも、24歳の男性が、それだけの理由で鎖国中の日本に死罪覚悟で帰るだろうか。

となると、同じく手紙に書いているように、「日本の港を開く」ことが本当の目的だったのか。そうだとすると、かなりの野心家だ。なにか方法はあると考えていたのか。聞きたい、いろんなことを。あれもこれも。

10年ぶりの日本。14歳の少年は24歳の青年に成長していた。いまにおきかえると、中学2年生でアメリカにわたり、社会人になって帰国するイメージだ。しかも、まだ誰も見たことのない海の向こう側から帰ってきたんだから、もうまわりは大さわぎ。

みんなが万次郎の話を聞きたがった。勝海舟も坂本龍馬も福沢諭吉も、みんなくやしかったにちがいない。自分よりも先に外国を見てきた万次郎。ジェラシーを感じただろう。

万次郎も、この状況をおもしろがっていたんじゃないだろうか。幕府の役人たちが、ねほりはほりいろんなことを聞いてくる。教えてあげようかどうしようか。まあいっか、減るもんじゃなし。そんな感じで、得意げに話していたとすれば、ますますおもしろい。

そして、ちょうどいいタイミングで、ペリーもやってきた。開国に向けての役者がそろった。そうそう、ペリーも万次郎のことを知っていた。日本に来る前に、連絡を取ろうとした記録が残っている。万次郎がなかなかの有名人だったことがわかる。

貧しい漁師のせがれが、いまやサムライとなった。侍たちに英語や航海術を教える傍ら、幕府の使いとして欧米を訪問する。こんなにすごい人なのに、なぜさほど目立たないのか。

万次郎の研究者の多くは、彼はもっと称賛されるべき人物だと言う。確かに、万次郎が持ち帰った知識や技術は、勝海舟や坂本龍馬にも大きく影響を与えたと考えられている。開国の立役者だという人も多い。

そのわりには、歴史の教科書にも登場せず、まるでおとぎ話のように語られる。勝海舟とともに咸臨丸に乗っていたことも、東大で教えていたことも、あまり知られていない。万次郎ファンから見れば、なかなか歯がゆい。

でも、最近おもう。万次郎にしてみれば、相当ゆかいな人生だったかもしれない。ときに命がけだった。でも、幕末~明治の大変革のど真ん中で、自分の能力を発揮するチャンスが次々にやってきたんだから。時代が、万次郎を必要としていたんだと思う。そんなすごい人だった。

万次郎―私の永遠のライバルだ。


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