見出し画像

キズナアイの衣装は、女性ファッション流行の延長にあるもの

NHKがノーベル賞の解説にキズナアイを起用したことで、【けしからん表現】に対する批判が再燃している。

・萌え絵の歴史を考えればこれはエロだ
・乳袋を描いている
・脇とヘソを殊更に露出する構図で描いている

自分の「けしからん」という気持ちを言語化しようとしたのだろうが、筆者には、女性ファッションで流行ったもの、女の子が憧れたものを無視しているように見える。


すでに半世紀前 女性ファッションの意識改革

1960年代、ミニスカートの女王と呼ばれた英国人モデルで歌手のツイッギーの登場は、「女性たるもの、おしとやかであるべきだ」という社会的女性像を打ち破るものだったように思う。→ http://ur0.link/MjId

女性だからといって世間体にとらわれる必要はなく、自分が好きな服を好きに着て良い。ネイルもして、ピアスもして「今日も、私はかわいい」と家を出よう。ツイッギーがやったことは、女性のファッションに対するそうした意識改革だったはずだ。

にもかかわらず、2018年にもなってキズナアイの衣装に対して「乳袋を描いている」「脇とヘソを殊更に露出する構図で描いている」といった批判が出てくることに時代遅れな違和感を覚える。

女性は、胸が目立たないゆったりした服を着なければならないのだろうか?


へそ出しルックもショートパンツも、既に流行ったことがあるもの

へそ出しルックは90年代に安室奈美恵さんがやったことでアムラーを中心に流行したスタイルであり、ショートパンツも90年代からギャル系ファッションの定番になっている。

二次元の世界に目を移しても、少女マンガであるセーラームーンや、女児向けアニメのプリキュアなど、元気な女性主人公がミニスカートやへそ出しルックで登場することは珍しくない。

キズナアイの服装はこうした系譜にあるものであって、男目線を意識したエロを根源とするという批判には無理がある。

「女性たるもの、慎ましくして派手な服は着させるな」という批判は、女性に社会的女性像を強いる抑圧なのではないか? 学校の校則を口実にして、ものさしで女生徒のスカート丈を測っていた教師たちと何が違うのか理解に苦しむ。


性的表現に問題のあるキャラなら、とうに消えている

YouTubeは、性的表現に厳しいサイトだ。

YouTubeは、自社が多くの視聴者を抱えたメディアとしての責任を自覚しているし、性的表現に問題のあるコンテンツは躊躇なく凍結してきた。性的表現を含むコンテンツにはフィルターが掛かるようになっており、子どもが安心して見られるサイトを目指していることは明らかだ。

キズナアイに関して言えば、2017年1月と同年4月に一時的なアカウント凍結(BAN)を受けている。BANの理由を通達するメールがないらしく原因は推測するしか無いが、いずれも誤BANだったと考えられる。

1月16日から10日間ほど続いたBANの方は、1月13日に投稿した動画内で、全裸という“言葉“を使ったことが理由ではないかとされている。ちなみに、問題とされたらしい「炭酸ジュース風呂!!」という動画は、YouTubeで閲覧可能な状態だ。無論、キズナアイが全裸になることはない。 → http://ur0.link/MjAD

しかし、このキズナアイのBAN騒動から推測できることは、「YouTubeは、性的表現に関して迅速かつ敏感に対応している」ということだろう。


キズナアイすら楽観できないVTuberの競争環境

キズナアイはYouTubeに、A.I.ChannelとA.I.Gamesという2つのチャンネルを持っており、あわせて動画投稿本数は800本、登録会員数は330万人を超えている。

仮にキズナアイに問題があったとしたら、ここまで放置されるだろうか?

「会員数が大きいから潰せないだけだ」と勘繰る方々のために参考の数字を上げておく。
・A.I.Channelの会員数225万人は、世界ランキングで3000位程度(→ http://ur0.link/MjrI)
・VTuberとして活動する人が5000人を超(→ http://ur0.link/MjB5)

キズナアイといえども代わりが幾らでも居るような競争状態にあり、問題があるなら躊躇なく凍結されるはずだ。


発信の自由を得たネットは、清浄にならない

ネットを清浄なるものにしたいのであれば、それは有料会員制にしない限り不可能だ。大学や研究機関を専用回線で結んで、有益で高尚な情報共有に使っていれば良い。

しかし、WWWの登場以降、ネットは世界中がつながれるものとなった。「誰もが閲覧でき、誰もが発信できる」のがネットの基本的な性質だ。

間もなくジオシティーズが閉鎖するそうだが(→ http://ur0.link/MjoJ )、かつてジオシティーズが始まった時代の情報発信には HTML や FTPソフトを扱う知識が必須だった。発信の自由を得るには、それなりに勉強しなければならなかったのだ。

ところが、2018年の現在は、ただテキストを打つだけで発信ができるようになっている。筆者がこうして書いている note も、小見出しを付ける際も画像を挿し込む際も、HTMLを考える必要はない。

ここまで発信の自由のハードルが下がった今、ネット空間を清浄に保つことなど出来るはずがない。筆者も見たくない画像に出くわしたことは幾度もあるが、それは無視するしかないと考えている。


キズナアイがキズナアイとなれたのは、ネットがいまのネットだから

VTuberは、パソコンの中で動くキャラクターモデルと、それに声や動きを当てる演者をモーションキャプチャーで連動させる技術によって成り立っている。

モーションキャプチャーというと、ジェームズ・キャメロン監督の『アバター』やマット・リーヴス監督の『猿の惑星』などが有名だが、今はパソコンの前で出来るところまできたのだ。

もし、このモーションキャプチャーが研究機関同士を結んだだけの閉じたネットで使われていたらどうなっていただろうか?

キャラクターモデルは必要最小限の簡素なデザインで、きっと何の面白みもないものだったはずだ。なぜなら、研究には、へそ出しルックもショートパンツも必要ないからだ。


VTuberは、今より先に行ける技術

キズナアイは、あのキズナアイとして誕生した。

筆者は、このことを意義あることだと考えている。

世の中には、もっと外で活躍したいと思っていても、様々な要因で外に出られない人がいる。しかし、キズナアイのようなキャラクターを自分の分身として使うことができれば、そういった境遇の人でも外に出る可能性を得られるかもしれない。

せっかく外に出られるのだから、表情は豊かに変わってほしいし、自分では着られないような衣装だって着せてみたいだろう。キャラクターモデルの衣装を自分で選んで、それを見た他の人から褒められる経験は、どれほどの喜びだろうか。

また、2018年の今日は、一部の仕事ではテレワークが進んでいる。そのうち、当たり前のように自分のキャラクターモデルを持つ人たちだって表れるかもしれない。

VTuberが見せているものは、そういう将来性を持った技術だ。キズナアイがノーベル賞の解説に呼ばれることに、何か問題はあるのだろうか?


まとめ

オタクの世界には、「自分の萌えは他人の萎え 他人の萌えは自分の萎え」という有名な言葉である。人の趣味は十人十色であり、自分の趣味を他人に押し付けてはいけないという意味だ。

アンダーグラウンドなオタクの世界では、「このキャラクターをこう扱うのは許せない」「この表現は不快だ」という言い合いがあちらこちらで勃発する。言い合いを始めた両者はそれぞれに思い入れがあるため、激しい言い合いの末、心を折られた書き手が消えていくケースも少なくなかった。

そうした中で生まれたのが、「自分の萌えは他人の萎え 他人の萌えは自分の萎え」である。

筆者が遡ることができた、ネット上に残っている最古の言及は2005年6月18日の投稿だった(個人でやられているサイトで、休止している様子だったためリンクは貼りません)。

オタクが10年以上前にやっていたことを、弁護士や社会学者などが2018年になって再燃させている事態には、「キサマ等の居る場所は、既に我々が10年前に通過した場所だッッッ」と叫ばざるを得ない。

つたない文章を読んでいただき、ありがとうございました。サポートいただけると喜びます。