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普通の人生?

街中のショーウィンドウに写る自分の姿は風景の一部として馴染むには無理があった

しかしその“違和感”が心地よかった



学生時代、ある程度自身のアイデンティティが確立された子供たちはその集団の中で求められる役割を演じる

また、そのステータスは新しい環境になることでリセットされる

「校則」に縛られて自身を表現する方法はコミュニケーションが主だった

「オナジ」からはみ出るものは必然的に除外されていった

今思い返せば校則という呪縛である
コミュニケーションが苦手な者はステータスを発信することが難しく、次第にカーストという器からこぼれ落ちていく

大学生になってからもある程度その呪縛からは取り憑かれたままで、普遍的な「女子大生像」に近づこうと髪を伸ばしたり今まで履きもしないスカートを身にまとったりした

「なんなんこれ」

普遍的に近づけば近づこうとしただけ、自身の本来の姿から離脱し他者に対する自己アピールは輪郭が霞んだまま曖昧なものとなってしまった

またも、スタートダッシュ失敗。
結局一般的な女子大生像の器からはこぼれ落ち、思い描いていた夢のキャンパスライフはやってこなかった。

結局、髪を切りど金髪をキメ、1人のオタク友達といつも一緒にいた

そこには“JD”にありがちな色恋沙汰の話ではなく、「俺の推し発表会」が私たちの世界では繰り広げられていた

いつも普通を求めていた。
自分を何処かアウトサイダーだと感じていたが、その部分を認めずにいた。自分の中を占める普通は、世の中の普通ではない。

社会の目という自意識に駆られ、いつの間にかコンパスの針は狂ってしまっていた


しかしコロナ禍というある程度他者との分断が発生した世の中は、生まれてきて20年間の溜まり続けた膿全てきれいに取り除かれたような快晴であった

呪縛に解放されたのである

就活を早々終え、私の中の「自分らしくある」ための実現に向けた。私らしくとは、内面的ではなく外見的に偏向しているため、なりたい髪、好きな服装を。がモットーである。

内面的に自分らしくあることが強く求められる社会では、カメレオンのようにその場によってコロコロ色を変える私にとって苦痛である。そのため、ある程度外面的なキーワードを他者に付与することによって相手にヒントを与えて振る舞いもそちらに寄せていく方が楽である。


東京という街は異物を排除しない

故に自身の持つ自分だけの宝石をしっかりと磨き上げ自分色を纏った武器を盾に他者とのを築いていった方が類は友を呼ぶ世の中、生きづらくないのかもしれない

今そう自分の脳内に強く言い聞かせる

世の中は一番“普通”の人に厳しい

「好き、嫌い」より「無関心」が一番の敵であるように。

オナジは楽であるかもしれないが、そのオナジが苦しめているかもしれない。

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