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蕎麦粉天正遣欧少年使節

蕎麦粉が半端に余っている。何か目新しい料理でも作れないかと思案。
そうだ、天ぷらの衣にしてみるか。
ということで、蕎麦粉で天ぷらを作りながら、戦国時代真っ只中に遠くヨーロッパまで行って来た少年達を妄想した記録。


材料

蕎麦粉  100グラム
重曹   小匙半分
卵    1個

後は適当な野菜。
茄子    2個
人参    1/4
ピーマン  2個
ズッキーニ 半分

天正十年(1582)は本能寺の変が起こった年ですが、この年の二月、長崎から出航した船に乗った四人の少年、伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノ。
名前が片仮名ですが別にハーフではありません。キリシタンの洗礼名。彼等は九州のキリシタン大名達の名代としてローマ法王に謁見するという大きな使命を帯びていました。
イエズス会の宣教師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノの発案を受け、送り出したのは大友宗麟、大村純忠、有馬晴信。北部九州のキリシタン大名達。
ヴァリニャーノの目的はローマ法王、スペイン、ポルトガルの王に日本人キリシタンを謁見させ、布教の援助を依頼すること。更にヨーロッパを実際に見た少年達にその素晴らしさを伝えさせることにより、更なる日本布教を進めるという戦略。


野菜を適当な大きさに切る。

一方、送り出す側の大名達にも思惑があったと思います。
彼等は皆、南九州の島津家に脅かされる立場。戦局を有利にするにはヨーロッパ諸国と貿易を優先的に進めて、鉄砲に不可欠な硝石を確保する目的があったのではないか。
火薬の原料である硝石は日本には産出しないので、輸入に頼らざるを得ない。鉄砲や火薬を大量に確保出来れば、島津に対抗出来るとの思惑があったのではないかと妄想。


蕎麦粉、重曹、卵を混ぜ合わせる。

四人の少年達は当時、13歳とか14歳。皆、有馬晴信の本拠、日野江にあったセミナリヨで学ぶ生徒の中から選抜。
熱心なキリシタンですが、それぞれ結構な武家の子弟。
伊東マンショは大友宗麟の血縁で日向国主、伊東義祐の孫。
千々石ミゲルは大村純忠の甥で、有馬晴信の従兄弟。
中浦ジュリアンは肥前国中浦城主の子。
原マルチノは大村の武士、原中務の子。


いい感じになるまで少しづつ水を加えていく。

二月に出航した彼等の船は翌月にマラッカ着。当時の航海は帆船ですから、風次第。よい風が来るまで港で風待ちということは珍しくない。
インドのゴアで、ここまで一行を引率してきたヴァリニャーノはイエズス会の指示により、ゴアに留まることとなり、別れる。
その後も航海を続けて、遠くヨーロッパを目指す。当時はスエズ運河はありませんから、遥々と南アフリカの喜望峰を超えて北上というルート。
今のように飛行機で快適にという訳にはいきません。
行くだけで何年もかかる。


野菜に衣をまとわせる。

ポルトガルのリスボンに到着したのは天正十二年八月。出発してから二年半後。
スペインやイタリアを経由してローマを目指す。
行く先々で国王や大公といった身分の高い人々に謁見。歓待を受ける。
当時のヨーロッパ人からすれば、遥か彼方のジパングなんて蜃気楼みたいな国。実在するかどうかも疑問だったかもしれません。遥々とそこから来た少年使節。物珍しさもあって盛大にもてなされたようです。
トスカーナ大公の舞踏会に招かれ、ダンスの心得などなく、緊張の余りか、中浦ジュリアンは老婆をダンスのパートナーに選んで笑われてしまったという逸話も残っています。
現代でも彼等のことは伝説のようにヨーロッパで語られ、その姿を描いたフレスコ画が発見されたとか、彼等が立ち寄った教会等が遺されていると聞きます。


油で揚げていく。

やがて本来の目的であるローマ法王との謁見を迎える。
ただ、この時、中浦ジュリアンは病気のために欠席。当時の法王はグレゴリオ13世。彼が改正した暦がグレゴリオ暦。現代でも使われている太陽暦。
この謁見時は高齢で、万一を慮って病気のジュリアンは欠席したとされています。
ただ、別の思惑があったとも言われます。
イエズス会としては日本からの使者を東方三博士になぞらえたかったのではないか。つまりキリストが誕生した時に贈り物を携えてやって来たという三人の賢者。
そのため、一人は欠席させるのは規定路線?
というより、四人という数も長い道中で誰かが死亡するかもしれないので一人はスペア?
謁見の場では伊東マンショがラテン語で声明を読み上げた。


揚がったら油を切る。

その後、ローマの市民権を与えられ、貴族にまで列せられた少年達は意気揚々と帰国の途に着く。
この旅での見聞や得た知識、持ち帰る珍しい品物を抱えて、これからの人生に胸を膨らませていたことでしょう。
天正十八年(1590)に帰国。日本を出発してから八年の歳月。少年だった彼等も21、22歳と青年に成長。
この年は秀吉による小田原征伐の年。その秀吉にも謁見して持ち帰った文物を献上し、ヨーロッパの音楽を演奏。
したにも関わらず、秀吉は伴天連追放令を発令。キリシタンは御禁制になっていく。


蕎麦粉天正遣欧少年使節。

まずはそのまま頂くと、仄かに蕎麦の風味が広がる。重曹を入れたことでふっくらとフリッターっぽい衣に仕上がった。
夏野菜中心の天ぷら、蕎麦の風味がよく合う。
蕎麦に含まれるルチンには高血圧や動脈硬化の予防効果。高血圧や血糖値の改善作用もある。

秀吉死後、江戸幕府も禁教の方針。
弾圧が厳しくなる中、慶長十七年(1612)伊東マンショは病死。
やがて棄教を拒むキリシタンは国外追放に処せられる。
原マルチノはマカオに追放され、寛永六年(1629)そこで死去。
中浦ジュリアンは禁教後も国内に潜伏して布教活動。ついに捕まり、寛永十年(1633)長崎で穴吊りの刑、つまり穴の上に逆さ吊りにされるという方法で処刑される。

前回、作った汁を天つゆに使用してみた。↓

思った通り、これもよく合う。

唯一人、棄教した人物が千々石ミゲル。
キリシタンは邪法であると言い切り、千々石清左衛門と名乗り、仏教に改宗。
昔は信仰を捨てなかった他の三人に比べて、千々石は裏切者だと思った時期がありましたが、最近は少し考えが変わりました。
千々石はキリスト教やヨーロッパ人の負の部分を見て、教えを捨てたのではないか。
少年達は彼の地で奴隷市を見たといいます。
そこには日本人の女も奴隷として売買。
同じ日本人でありながら、自分達は大名の名代として華やかな衣装を纏い、歓待を受ける一方、女達は奴隷として裸で家畜のように売買されている。
妄想する。
この時、千々石と女の目が合ったのではないか。
日本から侍が自分達を助けに来てくれた。女は期待。しかし千々石は立場上、どうすることも出来ない。
キリスト教徒は世界中から奴隷を連れて来て、そうした人々の犠牲の上に壮麗な宮殿や教会が建てられている。日本人も例外ではない。この社会への欺瞞。
禁教令が出たことで、それは確信に変わった。
改宗したにも関わらず、千々石は仏教徒からも迫害を受けることがあったといいます。教えを守っても捨ててもよい後半生は歩めなかった少年使節を妄想しながら、蕎麦粉天正遣欧少年使節をご馳走様でした。

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