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かぼ茶屋四郎次郎

戦国時代の最終勝者となった徳川家康。その天下取りを支えたのは犬のように忠実と呼ばれた三河武士だけではなく、武士以外の様々な人々が家康の周囲には集まっていました。
商人というのも重要な役割を果たした。その代表というべき人物を妄想しながら、これから美味しくなる南瓜を料理した記録。


材料

南瓜      1個
玉葱      半分
生姜      1欠け
大蒜      1欠け
バター     20グラム
ガラムマサラ  大匙1
唐辛子粉    小匙半分
ターメリック  大匙1
クミン粉    大匙1
コリアンダー  大匙1
塩       小匙1
ウスターソース 大匙2
粒状大豆肉   30グラム

茶屋四郎次郎というのは個人名ではなし。
茶屋というのは屋号。店の名前です。別に茶だけを売っていたのではなく、呉服や材木、交易も行う総合商社みたいな存在。
本姓は中島といい、小笠原氏家臣で三河出身とも山城出身とも言われます。
初代と言われる清延の父が四男、清延自身が次男だったことから、合わせて四郎次郎という通称を名乗る。
父、明延が武士から商人に転身。都で商売を始めて財を成し、室町幕府十三代将軍足利義輝が休息所として明延の屋敷を利用したことから、茶を飲む所、茶屋という屋号を名乗る。


大豆肉を水に漬けて戻す。

明延の跡を継いだ清延が初めて四郎次郎を通称として以来、それが受け継がれ、初代としてカウントされるということからわかる通り、かなり傑出した人物。徳川家康に早くから接近。武士は辞めた筈なのに三方ヶ原の合戦に参陣したなんて話もあります。
戦国時代はかなり身分が流動的なので、こういうことも珍しくない。父が武士から商人になったように、子が一時、武士に戻るなんてこともあったのでしょう。
また商人に戻ったのか、或いは武士と商人の二足の草鞋を履いていたのか?徳川家の御用商人を務めていましたが、特筆すべき活躍は本能寺の変における動き。
当時、堺に居た家康主従の所に都から馬を飛ばして駆けつけ、信長が死んだことを一早く伝える。
神君伊賀超えの危難と言われる三河への逃避行において、持てる財力を駆使して、つまり金をバラまくことで一行の身の安全に貢献。


わたと種をくり抜いた南瓜を蒸す。

無事に家康一行が三河へ帰り着いた後、清延は都にあって、台頭してきた秀吉や都の情勢を徳川家に伝えるスパイめいた活躍。また、秀吉との繋役も務めたといいます。
家康より2歳下でしたが、慶長元年(1596)に五十二歳で死去。
二代目四郎次郎を襲名したのは長男の清忠。
秀吉死後、天下人候補として存在感が大きくなっていく家康に更なる貢献をして、茶屋家を発展させる。
関ケ原の合戦後、都の情勢不安を家康に伝えたことが京都所司代設置のきっかけとなり、淀川の物流を一手に担うようになる。


蒸し上がった南瓜をマッシャーで潰す。

京都所司代に任命された板倉勝重により、京都町人頭に任じられた清忠でしたが、子のないままに死去。
弟の清次が三代目四郎次郎を襲名。
この人物は元々、徳川家家臣、長谷川藤広の養子となっていたが、兄の死により、実家に戻って跡を継いだことになります。これは幕府の命令だったようです。茶屋家が絶えては大変なことになるということ。幕府にとってもそれだけ重きを成す存在となっていた。


スパイス類、玉葱1/4の微塵切り、生姜と大蒜と玉葱1/4を摺り下ろした物、大豆肉を炒め合わせる。

養父だった長谷川藤広が長崎奉行となると、長崎代官補佐になる。その関係から交易に携わるようになり、莫大な富を蓄積。
その富で芸術のパトロンとなり、本阿弥光悦が鷹峯に芸術村のようなものを作るのを支援。
大坂の陣でも家康の陣中に詰めて、あれこれと御用を承ったとか。


唐辛子粉、塩、潰した南瓜を混ぜ合わせる。

大坂城落城。これで本当に戦国乱世が終わると、家康は清次に都で流行っていること等を聞く。
「最近は鯛の切り身を榧の油で揚げて、蒜を摺り下ろしたタレを付けて食べるのが流行っております。私も先日、頂きましたが美味でございました」↓

天下泰平となり、普段は麦飯を常食として質素な食生活を心掛けていた家康も珍しい物を食べてみたくなったものか、早速にこれを試してみる。
美味い美味いと普段よりも多く食べたようで、腹痛を訴えることに。
これが原因となったとは一概に言えませんが、病床に着き、元和二年(1616)に徳川家康は死去。


仕上げにウスターソースとバターを混ぜ込む。

このため、一般的に家康は鯛の天ぷらの食い過ぎで亡くなったように言われることになりました。しかし本当に清次のせいで亡くなったとなれば、冷遇されてもおかしくないのですが、別にそんな風はなし。
ただ、茶屋家の事業はその後、鎖国のために交易が出来なくなり縮小を余儀なくされます。
それでも代々、茶屋四郎次郎の名前を受け継ぎ、紀州と尾張という徳川御三家のお膝元にも分家を興して、江戸時代を通じて事業を続けていました。


かぼ茶屋四郎次郎

かぼちゃの甘味にスパイスがいいアクセントになっている。玉葱と大豆肉の粒も食感よし。バターのコクが味わいをマイルドにする。今回、キーマカレーとしてご飯に掛けてみましたが翌日、ホットサンドの具にしたら、これもよかった。
野菜を混ぜ込めば、かぼちゃサラダ、成形して衣を付けて揚げればコロッケにもなる。様々な顔に変化する様子は商人、武士、スパイと様々な顔を持っていた茶屋四郎次郎の名を冠するに相応しい。

明治時代、徳川の世が終わると共に茶屋家は廃業。本家と紀州家は絶えてしまいましたが、尾州の茶屋家は御先祖の名を冠した茶屋四郎次郎記念学園という学校を経営しておられます。
正に三位一体と言うべきか、親子三人で家康の天下取りを支えた茶屋四郎次郎や子孫達を妄想しながら、かぼ茶屋四郎次郎をご馳走様でした。

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