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上杉景勝おステーキ

鰹と言えば、タタキですが、敢えてよく焼いたステーキに仕上げながら、名門と言われた家を残すべく重圧に耐えながら、戦国の世を泳ぎ切った人物を妄想した記録。

忘れた頃に、上杉景勝の続き。前回はこちらから。↓

上杉家の家督を継ぎ、織田家と対立していたが、本能寺の変で救われた所まで、前回は書きました。何の芸もなく、今回も鰹を料理。


材料

鰹      刺身用1冊
大蒜     2欠け
玉葱     半分
米粉     適量
塩      小匙1/2
胡椒     少々
オリーブ油  適量
酒      大匙1
お好みソース 大匙3

織田家との全面戦争が信長の急死により回避された後、上杉家は信長の勢力をほぼ引き継いだ秀吉に接近することで生き残りを図りました。
秀吉にとっても、柴田勝家や佐々成政という織田家中の勢力争い、そして最大のライバル徳川家康との対立という事情を抱えていたので、味方が増えるのはありがたい話。


皮を剥いだ鰹を適当な厚さに切る。

義理堅いことに賤ケ岳の合戦や小牧長久手の戦い等、秀吉の戦にも協力した上杉景勝。
秀吉の後援もあり、景勝は越後の再統一を果たす。
そればかりか、全国統一を成し遂げる過程で、秀吉は全国の大名に総無事令を発令。平たく言えば、大名同士の戦を禁ずるという命令。
しかし上杉家には例外を認めて、越後や佐渡の切り取り勝手を認める。
秀吉も景勝の義理立てにしっかりと報いた。


玉葱と大蒜を細切り。

更に佐渡金山の管理を景勝に任せる。景勝ならば採掘された金を胡麻化したり、横領することもないと信頼されたということか。
更に小早川隆景の死後、それと入れ替わるような形で景勝は豊臣政権の五大老の一人となる。
早い内から協力し、義理堅く仕えたことからかなり優遇されたと言える。


塩胡椒、米粉を振った鰹をオリーブ油で焼く。

蒲生氏郷が亡くなった後、その遺領、会津を任されることになり、上杉家は越後を離れることに。百二十万石という広大な領土。会津の周囲には伊達政宗や徳川家康という抜け目ない大名達がいることから、それらへの牽制として会津の領主に抜擢されたと見るべきでしょう。謙信の頃から義というものを大事にする上杉家ならば信頼出来ると秀吉も考えた?
ただ、秀吉の抜け目ないというべき所は、この百二十万石の内、三十万石は直江兼続に与えるべしとわざわざ指示。
上杉家を実際に動かしていたとも言える要の家臣、直江兼続は秀吉のお気に入りであり、更に深読みするならば、景勝と兼続の主従関係に楔を打ち込もうとしたとも考えられる?
三十万石という結構な大名並の領土を、直接の主、景勝の頭越しに与えることで兼続を無二の秀吉方として繋ぎとめる目的?


焼いた鰹を取り出しておく。

他の大名の家臣で有能な者に領土や官位等を自ら与えることで、あわよくば君臣の離間を狙った?とも思える事例が幾つか秀吉の周囲にはあります。
家康の家臣達に官位を斡旋したり、大友宗麟が傘下に入った時に立花宗茂を独立させたことなど。ただ、多くの場合、有能な家臣は主を見限り、無二の秀吉方になることはありませんでした。
兼続もあくまでも上杉家の家臣という立場を堅持し、景勝も兼続に隔意を抱くこともありませんでした。


大蒜と玉葱をオリーブ油で炒める。大蒜の香が立ち、玉葱がしんなりするまで。

秀吉の死後、大きな歴史の動き。上杉家はその中心に据えられることに。
次の天下を窺う徳川家康と豊臣政権の維持を図ろうとする石田三成との対立。直江兼続は三成と懇意だったこともあり、どちらかというと反家康。
上杉家は神指城という新城建設を進め、領内の橋を整備、牢人の召し抱えを行う。万一の備えを固めていた。
傾奇者として有名な前田慶次郎もこの時期に、上杉家へ加わる。


酒とお好みソースを加えて、炒め合わせる。

派手好きな傾奇者の慶次が質実剛健、どちらかというと地味な家風と言うべき上杉家に惹かれたというのも奇妙な気もします。
景勝自身が常に厳格な風を崩さず、笑うことも殆どなかったという人物。家臣達も行列や行軍の時も誰も無駄口を叩かずという風だったとか。
真面目で義を重んじる家柄、そこに慶次は惹かれた。
「我が主と頼むは会津の景勝をおいて他にはあるまい」と語っていたとか。
「花の慶次」とか「一夢庵風流記」では慶次は無二の友である直江兼続のために上杉に味方したと書かれていますが、慶次の言葉から推測すると兼続ではなく景勝自身に魅力を感じていたのではないか。


いい感じに煮絡まってきた。

新城建設や領内整備、牢人の召し抱えは謀反の準備だと、言い掛かりとも言えそうなことを並べて、家康は会津征伐を断行。
そして関ケ原合戦へと繋がる。
結局、家康率いる軍勢は会津に攻め込むことなく西で挙兵した石田三成方と戦うために上方へ引き上げる。この時、上杉は追撃せずに見送る。
無理に攻めて来るなら自衛のために戦うが、そうでなければ無理な戦はこちらからは仕掛けないということか。
或いは三成方と共に挟み撃ちしようにも距離が離れすぎている。加えて背後には伊達政宗という油断ならない者がいるので、家康方が反転したら、こちらが挟み撃ちを食らうことを避けるためか。義を守るのも大切だが、謙信から受け継いだ上杉家も守らねばならない。


上杉景勝おステーキ

玉葱ソースを鰹にかけて頂く。
甘くしょっぱいソース味が焼いた鰹によく合う。
火が通った鰹に濃い味のソース。これはよい組み合わせ。
青魚である鰹にはDHAやEPA、不飽和脂肪酸が豊富。
大蒜には疲労回復効果のアリシン、玉葱で血液サラサラ効果。
ご飯が進む味。

上杉家は自分からは何も仕掛けず、徳川と戦っていないにも関わらず、敗者とされ、会津百二十万石から米沢三十万石に減封。
領地は大幅に削られたものの、家名は存続。
領土が!/4になったのだから、家臣も当然、減らさねばならないのですが、臨時雇いの牢人は兎も角、譜代の家臣達は無禄でもついていくと言って、そのまま上杉家に残ったとか。景勝もまた無理にそれを断ることがなかった。
結果として、上杉家は江戸時代の殆どを通じて領地の割に武士の割合が多く、どちらかというと貧乏な藩になりました。
禄も減らされるどころか、無禄でもいいという家臣がそれなりに居たということは、利を超えた義という魅力が上杉家、ひいては上杉景勝にはあったのかもしれません。
そんなことを妄想しながら、上杉景勝おステーキをご馳走様でした。

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