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東京路地紀行 23 港区三田5丁目

今回の夜散歩先は、港区三田5丁目。三田1丁目の再開発が始まったばかりなのですが、5丁目のこちらも2年後には一つの路地が消え、再開発が始まるとの情報を得て、数年ぶりに訪れました。
この町も1丁目と同じく古川沿いにひろがっており、昔からの木造住宅密集地帯です。

三田1丁目との違いは。
1丁目は北と西の二方向で古川と接しています。北に進むと東麻布を抜けて飯倉へ。西に行くと麻布十番。ここからは元麻布、南麻布、広尾へと抜けていく道と、六本木へ続く坂があります。そして1丁目の南側は三田の台地。かつては徳川家の屋敷などもありましたが、今は三井綱町倶楽部、オーストラリア大使館、イタリア大使館等大名屋敷跡を転用した常人は立ち入れない施設が並ぶ異世界的エリアになっています。それらの異世界の施設が建つ尾根道を越えると、慶應義塾大学、三田の繁華街へ。おそらく北⇔西⇔南の交通の要衝だったことで1丁目は道も通り抜けられるようになって栄えたものと思われます。言っていれば三田⇔麻布⇔六本木/広尾へと行きかう旅人たちの宿場町ですね。

一方の5丁目は、というと、実は数年前までその存在を知らなかったのですが、古川が白金から三田へと90度近く曲がっていく流れから少し離れたところにあります。つまり目立たない。それがこの小さな路地がいままで生き残ってこられた大きな要因なのかもしれません。

では5丁目の路地へと入っていきます。
最初に目にはいってくるのが錆がきれいにグラデーション風のまだら模様を出しているトタン壁に覆われた木造家屋。ここにはまだお住まいの方がおられるようですが、近づくと「芝區豊岡町」の住所表示の琺瑯看板。「芝區」は戦前、東京市35區時代に存在した区。昭和初期に造られたのでしょうか、横書きの文字は右から左へ。「區芝」「ず必に庭家御」「素の味」です。
間口が横に広いこと、路地の一番おもてで広い道に接していることからなにか商売をしていたと考えられます。何の商売だったのでしょうね…



路地の奥へはいるといきなり四角い東京都のマンホール。東京都のマンホールでもお日様のような形の日輪の部分が短いのは昔のデザインです。
太陽と日輪ではなく、「東」の漢字を表しているのですけれどもね。

先へ進むと大きめの砂利が敷かれた路地。未舗装です。令和の東京都港区にまだ未舗装の場所があるって!!どんなに静かに歩こうとしても音が出てしまうから防犯対策的にはコストもかからず良いのかもしれませんね。でも大雨の日はどういう状態になるのだろうと心配も…いらん心配かな(^-^;

砂利道。神社ほどではないですけれどもいい音を出していました♬

この路地地区は格子状ではありませんが、縦横に路地が走っています。
それなので、縦に歩いてみてから脇の路地にはいって横へ移動してみたりとかしてみました。完全舗装されているところももちろんありますが、未舗装、半舗装の路地もけっこうあります。これはちょっと驚き。都内のあちこちの路地を歩いていますが、下町のほうでもだいたい完全に舗装されています。まあ下町は路地が多いから行政も区民の生活拠点を未舗装のままにしておくわけにはいかないのかもしれませんね。住民が隣の区へ逃げちゃったら困るからw

路の両側の鉢植え、プランターがずらりと並んでいます。
そして奥には緩やかに弓なりのカーブをしている路地がみれます。

その緩やかに弓なりのカーブをしている場所へ。石畳が街灯の明かりに反射して、歩く者を導いてくれます。

そして入ってきた方向とは反対側、つまり古川から遠い側から出ていきます。こちらにも広い道がありその道に面して、今度は銅板建築の店舗兼家屋があります。ここも住んでいる方がおられるようですね。「栃木屋」の屋号がみえますね。なに屋さんだったのだろう?
銅板建築の建物がつくられたのは、関東大震災で木造家屋の耐火強化が叫ばれた大正末(14年くらい)から大東亜戦争による兵器製造のために銅などの金属の民間使用が制限されはじめた昭和初期のころまでのほんの10年ちょっと。今も使われているのって奇跡に近いですね。


ということで滞在時間は20分程度でしたが、夜の路地、楽しめました。

追伸:栃木屋の屋号の店舗はかつて八百屋だったそうです。

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