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うたがわきしみうわごとだものⅡ

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感じたことあれこれ。日常。コラム。創作日誌。エッセー的な。作品にはならないうわごと系の。二個め。文芸を志す方にオヌヌメ。
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2019年4月の記事一覧

鳥肌立ちたいし、立たせたいだろ 理由なんてそれくらいでいい

選択肢が無い人生も不幸だが 選択肢が有りすぎるのも不幸だな 違う。 どっちに転ぼうと それを楽しもうと決めて生きれる奴が幸福で どう転んでも不幸と感じて生きる奴が不幸なだけだ 悲観主義者は感情で生きる 楽観主義者は意志で生きる #名言

落語には前座の期間があって、まあまだまだ時間と金に見あったものはやれないのが当たり前、しかしそれが許されるのは、そのあと真打ちが待ってるからなんだよな。まだまだ人前でやれるレベルじゃないのに人前でやりながら勘所を体得させ、成長を早く促せるシステムなんだろうな。よくできてやがる。

一流の作家やアーティストさんの素晴らしい作品を体に通させてもらうときなんかすごく「いただきます」「ごちそうさまでした」って気持ちになる。 だって、やっぱりそれは、その人の生命のエッセンスなんだから

note記事の有料、無料の話はナーバスに迷っちゃう人が多いと思うけど。ぶっちゃけ、自分だったら、この値段でこれ買っても満足じゃ!と思えるものならガンガン値段つけて販売していんじゃねえかな。あとはあなたの客観性が問われるけども。わそはnoteくらいは好き勝手やりてえから無料でええな

「いただきます」は 搾取するなら作物や生命にだけ 送られるべき念ではない 人の時間を頂戴するときも 表現者たちは心がけるべきなのではないか これを読んだあなたの時間と空間を 「いただきます」 「ごちそうさま」

いろんな表現があるが 人のお金と時間を搾取するなら そこには相応のある種のエモは必須 お金は取らないけど時間はもらうよ というならエモは必須ではない だが長さに見あった何かを提供できるに越したことはない 次に繋げるためにも アーティストの領域になると 別空間に連れていくことが必須

自身が以前に書いたものを読むと拙すぎてへこむことが多々あるが、どこが拙いかが具体的に見えるようになったということは成長の証であり、むしろ喜ぶべきことでもある。

『noteで良かったか? ~note存在論的実存主義で嘔吐するサルトルも斯く語りきサモハン・キンポー主演黒船来航ちょんまげピストル滞在攻防記:「誰が寿司はマグロからと決めたのか?」ソシュール言語学概論第四章より抜粋の極みガイアの朝焼けアーネスト・サトウは家政婦なみに垣間見た情熱ホルモン大陸間弾道少女けだし夕刊マダムはレトロスペクティブより~』

noteで良かったことを語る前に、あの吉田さんのコメントスレ―― 果たして本当にnoteは「良かった」のかどうか 「良かった」と断定するからには、光と影が切り離せぬように 「悪かった」という評価が当然背中合わせに存在しなければならない。 だが、noteというこの曖昧模糊とした世界を 実際問題、良いか悪いかの狭量な二元論で片づけてしまっていいのか、 まず僕らはそこに立ち返って考えてみる必要があるのではないか。 なぜかなら、かつての最先端物理学の検証結果を遡るまでもなく、