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うたがわきしみうわごとだものⅡ

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感じたことあれこれ。日常。コラム。創作日誌。エッセー的な。作品にはならないうわごと系の。二個め。文芸を志す方にオヌヌメ。
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#うたがわきしみ語録

『みみみさんの第二回noteSSF投票開催中ひきこもごも』

https://note.mu/umimimimimi/n/ne03d192c6168?scrollpos=comment 醸し部のメンバーが推した作品は実はどれも好きだなあ。 雨さんが推してる凛恋さんのは彼女が作品をnoteに投稿した当時から肩入れして口出してたくらいだしw(まあ、今はあまり彼女のファンを刺激してもなんなので、口出しするのは一切やめましたが(^_^;)w 醸し部部長はあちこちでいろいろ醸してるのよw 懲りないねえこの男もw) 雪人形さんが推しのペンギン

いま、僕がいる、ここが宇宙の真ん中だ。 宇宙に上下がないなら、そう決めてもいい。 それが真ん中かどうかも変わり続けるなら 毎日、自分が真ん中だ、ってセットするのも自由。

『宇宙って何者だよ』

「諸行無情」――この世に刻一刻と変わらないものは存在しないなんて、実に心もとなく、だったら何を拠り所にして生きていけばいいのだと、自分すら見失いそうになる――が、実は「誰がなんと言おうとどうしようもなく変わり続けるというシステム」というのは偉大な「慈悲」なんだと思う。 たとえ今日が「天国」でも、明日が「地獄」でも それが「固定化」はされることはけしてない。 絶えず変化し、流れ続ける。波。 (本当の一秒の長さは誰も知らない。計れない。切り取れない。相対的で人それぞれで体感も違

全力で失敗した方が気持ちいいように全力で「間違える」って「正しい」かも? とか言ってるとぽーんと宇宙に放られたように何が正解で何が間違いなのかよくわからなくなってくる。ただ「絶対」なんてものがあるとすれば最先端物理学でも明らかなように「絶対的客観性」は「絶対存在しない」ってこと。

宇宙に上下がないように「これが正しい」なんてモノの見方や正解はどこにもなくて、実は「間違い」なんてのもどこにもないのかもしれない。ただ人はみんなどうしようもなく自分だけの「サングラス」をかけて生きてる。ときどきそっとはずして、まっさらな瞳で世界を眺めて、生きてみたいなと思う。

“感じる”ことにおいては自らを狂人であると称していた宮本輝。彼はシルクロードを旅するエッセーでこう語っていた。「命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬ、という人間くらい始末の悪い人間はいない。しかし、そんな始末の悪い人間でなければ世の中を根底から変えることなどできはしないのだ」 と。

もっと死ぬほど悩んでもいいかも。ぜんぜん足りないかも(笑)悩んでるほうが、スポンジみたいに深く読んだり見たりできるし。それが血肉になって、もしモノカキが仕事になったときに、その悩み深き暗黒時代の血肉こそが、書き続けるための体力になり、作品に滋味を与えてくれるシワになるだろうから。

人間はみんな他者との関係性のひずみの中でうごめく生物なので。かかわりあって、影響しあって生きていかざるをえない生命体なのです。でも、どう生きるかは自分で決めるものだと思います。そして、それが良いかどうかも自分で決めていい。ただし、それで金を払うかどうかは世間が決めることかと。

ピカソは人に「俺の絵を、どう思う?」などとは聞かなかった。 「俺の絵をどう思うかはお前の勝手だ」と言っていた。

東京にきて右も左もわからず、声優なんか本当になれるんかなあとか不安でどうしようもなかった時「まだ土俵にも乗ってないくせに悩むなんておこがましいよ、お前のことなんかまだ誰も知らないよ。まず土俵に乗ってやってみて、できるかどうかさんざんやってみてから悩めよ」って言ってくれた人がいた。

ゴッホじゃないけど才能だけあっても運悪く見つけてもらえなかったり、世の中の歯車と噛み合わなければ、一枚、あるいは数枚のみしか売れず、不遇のまま死ぬということもあるので、僕がいうことでもないんですが(笑)モノカキとして世に出るためには才能だけがマストではないという意識が大事かもry

「自信」というのは「自分を信じる」って書きますが、それはもう、本当にその通りで、文才に自信がなくなるときなんて日常茶飯事ですが、そんなとき自分は「力がないから信じられないのではない。信じるから力がでるのだ」と言い聞かせてやってます。(これは、きしみの言葉。今でも言うと元気になる)