見出し画像

【ショートショート】雨に乗りて歩むもの【後編】

この嵐を止めてくれるな。

排気ガスよ、ペトリコールを邪魔してくれるな。僕の身体に入ってくるすべての雨よ、風よ、まったく自然的でない冒瀆的科学によって汚されてくれるな。怒りすら覚える……タイヤが水を撥ねる音、人間の足音。僕の雨を奪うな。

靴下に、不快な、じめっとした温度が伝わる。その不快の心地よさと言ったらない。皮膚が湿気てふやけていくのがわかる。身体が雨と同化していく……。

雨の持つ魔力! それをあなたは今日感じただろうか……この台風の日に! イヤホンをせずに雨音を聴いたか? マスクをせずにペトリコールを吸い込んだか? 水溜まりを避けずに踏み荒らしたか?


雨……僕を狂わす雨……貴方は太陽より素晴らしく、夜の闇より美しい。貴方の愛を全身に浴びていると、まるで宇宙の終焉から地球を見下ろしているような気分になる。無重力状態で身体と精神がひっくり返り、身体の内側から精神の外側を眺めているような気さえする。

雨はただの水ではない。蒸発、上昇気流、凝結、落下。そんなプロセスでは、このような畏敬の念は生まれ得ぬのだ。この雨は特別だ。特異的な、天変地異的な雨である。

ペトリコールが、だんだんと純粋なにおいになっていくのを感じる。水のにおい。土のにおい。それが分離して鼻腔を過ぎ去っていく。不純な成分の取り除かれた完全なペトリコール。こんな完全性を持っているものといえば……

雨音は、次第に、純粋な音に還元されていく。僕の身体で跳ねっ返るどんな小さな雨粒も、その躍動する音を僕は捉えることができる。コンプレッサーにかけたように、雨の音が粒立っていく。今の僕は、毎秒に何粒が傘や身体に落ちてくるか正確に数えることすらできる。不純な成分の取り除かれた完全な雨音。こんな完全性を持っているものといえば……

気づけば、いつもの道から外れ、知らない場所に着いていた。まだ朝だというのに辺りは真っ暗だ。しかしそれは雨雲によって暗くなっているわけではない。ここはどこだ……なぜ闇で満たされているのだ……?


違う。僕は今、雨雲の中にいるのだ。

雨雲に立っているわけでもなく、浮いているわけでもない。まして落ちていくわけでもない。僕はただ雨雲の中に存在している。そして、雨雲の闇の中で、むきだしの心が雨風に晒されているのだ。

僕は眼を開けていられる余裕なんてなかった。しかし見えていた。雨が。風が。においが。本当に僕は狂ってしまったのだと思い、手足を力いっぱいに伸ばしたり縮めたりして、狂える心を鎮めようとしていた。

しかし無理だ。僕はついに見てしまったのだ。雨に乗って、雨と同化しながら——いや、あれは雨そのものでもある——鳥と魚と獣を混ぜこぜにしたような身体を。

それは大鷲のような翼で風をこねていた。翼には鱗のようなものがびっしり付いていて、ただの鳥ではないことを物語っていた。かと思えば、四本足の巨体には、グリズリーのごとき灰色の体毛が生え揃っており、雨を吸って大きくなっていた。手足の先には、鮫のヒレにも見える爪が生えていた。そしてその頭の部分には、なんとも冒瀆的であるが、頭の代わりに、体毛や鱗を撒き散らしながら、台風が渦巻いていたのである。

僕は狂気に閉じ籠る暇もなく、呼吸を止め、厳然たる事実として現前する神を崇拝した……。

思わず涙を流していた。その涙はすぐに吹き飛ばされ、街に落ちる雨のうちの、たったの一粒になった、という。

今の僕は、そんなこと知る由もない……

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?