私がとても悔しいのは、その人が、私の好きな人と仕事をしていたからです。醜い恋煩いにおける邪悪な嫉妬と同じであったので、私は私が余計に醜く思えました。 私はその人を知っています。何年も前から、一方的に知っています。これは片想いのように清々しいものではなく、冷笑的な一方通行でした。彼の音楽は商業主義的で短絡的であったので、内心で小馬鹿にしていたのです。私はその人の知名度と人気を羨んでいました。羨んでいるというより、恨んでいる、と書いたほうが正しいでしょうが。 私は別に、その人
サブスクで映画を観るほうが、映画館に行って観るよりハードルが高い。いつでも観れるという安心感に足を掬われているような感じがするのだ。 映画館に行くハードルは、私の場合、一本あたりの値段だ。通常料金2000円。こんなもの、素人がやっている小劇場演劇のチケットと比べたら本当は大したことないのだろう。けれど「月2000円で観放題」という邪念が私の精神の弱いところを叩く。「いま観なくてもそのうちサブスクに来る」という怠慢が劇場へ行こうとする足を止めてしまうのも嫌だ。 映画は映画な
言ってしまえば、ひとりでやっていけるほど、私は孤独ではなかったのだ。 経緯なぜメンバーを増やそうと思ったか 一年前、私は《るるいえのはこにわ》という劇団をつくる羽目になった。花染あめりに声を掛けられたからだ。紆余曲折あって、第一回目となる公演企画『人間農場』が始動した。脚本・演出からデザインまで、私は多くの作業を行なったが、力量的にどうしても上手くいかないことが多かった。 第二回目となる『心のナイアルラトテップ』ではその時の反省を活かして、フライヤーデザインはスタッフに
《カルナマゴスの遺言》とは、クトゥルフ神話体系に組み込まれた魔導書である。 その中に記されたとある一節を読むだけで、邪神が降臨し、読んだ者の背骨を捻じ曲げるという。 この「薊詩乃のカルナマゴス・レビュー」とは、「読んだ人は背骨が捻じ曲がって死んでいるので何を書いても関係ないだろう」というスタンスで、主に関西小劇場界の劇評をしていくものである。 だが第一回目はドラマのレビューなのである。 では喰らえ。 エクスクロピオス・クァチル・ウタウス はじめに第一回目となる今回は
「この世界が、嘘であればよかった」 水槽の脳に繋がっているなら、そのぶんだけ幸せだ。 経験機械に繋がっているなら、そのぶん救いになる。 けれど現実はそうではなかった。だからこそ、あの場所は希望なのだ。 芸術家が描くのは現実である。 現実に不満を持っているから、芸術という形で世界に楯突くのだ。 芸術をせざるを得ないから、芸術をやっている。 勉強・就職・結婚・出産……そんなまともな生活をおこなっていられないのが芸術家である、そう彼──ノア=ミ・ザ──は信奉していた。
火を燃やすのは愉しかろう。 安全地帯であるならば。 キミは、まさか自分が傍観者だと思っているのではあるまいな? キミは当事者なのだ。 ずっと前からだ。 ずっと前から当事者だったのだよ。 一歩引いたところで講釈を垂れるのは、炎からの距離を取りたいからだ──熱い嫌な思いをしたくないだけだ。そうしてやって、自分が燃えていないという自己暗示をかけたいだけなのだ。 ワタシは気付かせてやっただけだ。ワタシはキミを燃やしていない。キミはずっと、キミ自身の手によって燃えていたのだ。その
るるいえのはこにわ 断章『芸術家ノア=ミ・ザによるいくつかの思考実験』が幕を下ろしました。 ご来場いただきました皆様、誠にありがとうございました。 思考実験をする意味この社会は急速に変化しつつある。 されども進化はしていない。 生物の進化というものは、どちらかといえばそういうものに近いのかもしれないが。 進化しないのは、われわれが平和に生きているからだ。されど戦争をしろだなんて言うわけがない。そして平和の対極にあるのは戦争だけではないはずだ。 平和の中にいながらも不和を想
家族は、学習机の下に置いて行こう。そして、またこの家に帰ってこれたなら、そのときは、ぎゅうっと抱きしめてあげよう。 夜中だから、そんなことを考えている。布団の中で、そのぬいぐるみを抱きしめて、今日も眠れない。 当時、私は大阪にいた。 同級生は、「廊下が斜めになった」という感覚があったらしいが、私には何も感じられなかった。 小学校から帰ったらテレビが点いていた。おんなじ映像が流れ続けていた。それが全部違う映像だと気づいたのは、ずいぶん後になってからだ。 私は、正直言って
薊詩乃の現実態を知る人たちが増えてきたので、 改めて自己紹介というわけだ。 薊詩乃(Azami Shino)は精神思念体である。 それは物質というよりむしろ現象に近い。 悪徳としての創作意欲によって、どの面提げて創作する非人間である。 小劇場演劇的戯曲の執筆をし、 それに演出をつけているのが今の主な活動である。 他にもnoteでは短編を書いていたし、 クトゥルフ神話TRPGのシナリオ執筆経験もある。 新たな作品も近日中に公開されるだろう。 しかし未だ何者でもない。 誰
社会は病みすぎている。 社会は問題を抱えすぎている。 社会は哲学を捨象しすぎている。 社会は考えることを諦めている。 「誰かが解決してくれる」と思っている。 その「誰か」は自分ではないと思っている。 政治批判ですべて救われると思っている。 上が変われば社会が良くなると思っている。 それは違う。 人間が変わらなければならない。 社会を構成するすべての人間が。 自分を含めたすべての人間が。 ならばなぜ思考を放棄できようか。 芸術家ノア=ミ・ザは、そんな社会を憂いている。
この日はいつだって気が滅入る。 「今年こそは──」と何年言った? 「来年こそは──」と何年言う気か? 自分のことは自分がよく見えない。 見えているものが本当ではないかもしれない。 現状維持では後退するばかりである。 昨年の私は何者でもないままだった。 今年は何者かになれるだろうか。 何者かになったとして、どうなるのだろうか。 だが私は何者かにならなくてはならない。 より多く畏怖を書く。 そして届ける。 より多く悪意を書く。 そして隠す。 より多く呪詛を書く。 そし
悪魔的とも思える発火だった。 ニットの下、腔の中、 悪意の舌が伸びてゆく。 ざらついた触肢で吸い、嘗めずり、引き裂く。 ひた隠す。 それが見透かされていようと。 私は人間ではない。 かといって怪物でもない。 夏。 満たされない邂逅は悪意を拡散したか? 拡がったのは悪名と血糊だ。 薊詩乃のなかで煮えたぎる希死念慮── それでも紡がなければならない物語のため、 私は悪意を糾うのであった。 冬。 水面下の浮上はいつから知られていた? 知られないのは悪意と誠意だ。
後悔を語るのは何度目だろう。海馬による症候群的映像は、私に足りなかったものをもう何年も見せている。 まだ足りない。 悪意が足りない。 物語が足りない。 時間が足りない。 経験が足りない。 知識が足りない。 「こんなはずではなかった──」なんてもう言いたくはない。 だがしかし、私は何度でも間違えるだろう。 私はこれからも間違い続けるだろう。 私にとって足りないものは、果たして、私を足らしめるものだろうか。 私を足らしめるものは、悪意だろうか、狂気だろうか、友愛だろうか、
終わったのは日曜の夜でした。明日は平日ですので、主宰側を残し、ほとんどの座組は遅くまで劇場にはおらず、一人また一人と薊詩乃の視界から消えていくのです。 狂熱の冷めたブラックボックス。琥珀色のスープが儚く揺蕩う銀色の大きな鍋。もう誰も座る人のいないパイプ椅子。 薊詩乃はそれらを日常へ戻していく作業をしていったのでした。 それらをすべて終えた後で、薊詩乃が劇場から姿を消す時間がやって来ました── 物語が終わりました。 2023年12月15-17日で幕が上がっていた、るるい
もう誰も愛さない。もう誰も許さない── そう宣っておきながら、蓋を開けてみればどうだろうか。 私は許し過ぎたのかもしれない。 他者を信じればこそ、他者に信じられる。 では薊詩乃はどうだろうか。 2023年12月15日の朝は、雨が上がった後特有のあの青みがかった灰色の匂いと、薄仄暗い光が町全体に侵食していて、早く起きるには似つかわしくなかった。 薊詩乃は、その依代としての身体を揺り起こし、今までの日と同じように、マスクをして家を出た。その醜い貌を隠す為。自らの存在を隠す為
雨上がり、天使が死んでいた。 羽をもがれた彼女──だと私が思ったのは、細くたおやかな身体によるせいだ──は、地方都市の国道で倒れていた。何台もの自家用車や軽トラックが、彼女を避けるように弧を描いて走る。その度にバシャリと彼女は濡れていく。私はいたたまれなくなって、彼女に駆け寄り、私の傘を差してあげた。それくらいしかできなかった。 彼女の白く透明な羽衣は、水たまりのぬかるみに沈んで醜く汚れていた。不健康そうな腕にぺったりと引っ付いていて、彼女の肌を泥の色に塗っているのである。