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我々は皆「交換可能性」から逃れられない

以前数字として見られ得ない人間などいないというタイトルで記事を書きました。今回の話題もこれに近いもの、あるいは補足的なことになります。

「我々は生きた人間であり、『モノ』や『コンテンツ』ではない」といったことは所謂バーチャル界隈に限らずよく言われている印象があります。
しかしながら、理想はともかく実際のところ誰からも数字やモノやコンテンツとして見られ得ない人間などいませんし、だからこそ俺は現実に他者をそう見ること・誰しもが他者からそう見られうること自体を悪しきもののように扱うべきではないと考えており、web上において語られる「生きた人間←→コンテンツ」という対立軸のようなものに対しても疑問符が浮かんでいるのです。

「生きた人間」と「数字」や「モノ」、「コンテンツ」といったものは対立軸上にあるものではなく、同じものを違う側面から見ただけに過ぎず、むしろ本当に怖いのは「自分は他者を数字やモノやコンテンツではなく人間として扱うことができている」と根拠なく思える人間のほうだともいえるのではないでしょうか。
もっと言えば「人間を『人間以外の何か』と見做す社会構造や心理の問題」以前に、人間の一生が「限りある命」というものに縛られ続ける限り本当の意味で「何者にも代えがたいただ一人の存在」が生まれることはなく、我々は皆交換可能性から逃れられないわけです。

故に「我々を数字やコンテンツではなく生きた人間として見ろ」といった主張は究極的には不毛ともいえますし、ある種の生きづらさについては「代わりがいない存在」など誰一人としていないのだと考えた方が和らぐのかもしれないと思っています。

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