絵を描くのもゲームを作るのも嫌になった話/創作コミュニティへの不信と反感


そもそも俺が/プロデューサーさんがweb上に絵を公開するようになった理由というのは自身のサイトやブログといった場所の「看板娘」となるようなキャラクタを生み出したかったからです。
そしてゲームを作りたかったのもタオルケットをもう一度シリーズ戦国TURBの影響を受けてこんな雰囲気や世界観のゲームが作りたいと思ったからで、初めから独創性のあるゲームを作ろうとしていたわけではありませんでした。作りかけで放置しているものもほぼ既存タイトルのクローンに近いものです。
元々プロデューサーさん名義のTwitterアカウントはエロ絵のネタ用の診断メーカーの結果を投稿するだけのアカウントでしたが、その診断を制作された方や周辺のイラストレータ・漫画家等をフォローしていくことからプロデューサーさんのTwitterライフは始まったといえます。しかし創作界隈は必ずしも楽しいばかりの場所ではなく、それどころか「オリキャラには「本編」たる漫画やら映像作品やらゲームやらがあって然るべき」だとか、「創作キャラは描いたヒトの子供のような存在~」だとか「創作者かくあるべし」といったクソどうでもいい規範を擦り付けあう地獄でありました。

弱い存在でありたくない感情

ネット上には「作品への肯定的な反応は創作者を堕落させる」「自己顕示欲や承認欲求の充足のために行う創作は悪である」「ワナビーは恥である」といった呪いがあります。かつての俺も例外ではなくこの呪いを受けていました。
他者の感想や内輪の肯定的な反応に依存する「弱い」存在になりたくなかった「駄サイクル」の謗りを受けたくなかった。「弱い」ことも「ナメられる」ことも万死に値する罪であるから。
しかし一方で肯定的な反応を得られない時期が続くと不安や苛立ちも人並みには生じました。
ゲームを作るという行為は労力に対してあまりにもレスポンスが見合わない。下手をすれば叩かれるだけ叩かれて終わりということもありますし、俺が最初に作ったゲームはまさにそれでした。「お前にはゲームを作る資格がない」とまで言う人もいました。今思えばまったくその通りであります。俺はゲームを通じて自分と自分のキャラクタを有名にしたかっただけで本質的にゲームが作りたいわけではないのですから。

それでも「作ろうとしていい」なら

創作者生命を絶つ前の身辺整理、あるいは「あるべきだった」華々しい思い出作りの一環として、かつて作りたかったゲームとそこに登場させるはずだったキャラクタ群を今改めて作り直すとすればどのようなものになるのか、そういった構想のようなものを書き連ねるなどしてもよいのかもしれません。

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