誰もが「ジョーカー以外の誰か」にもなり得る

 何かと話題なので早いうちに観ておきたかった「JOKER」を観てきました。結論としては「だいたい俺が観たかったようなもの」であったので満足しています。確かに人によっては肩透かしを食らったような印象受けるのも無理はないかとも思いつつ。

 この映画について「同情/共感/感情移入/支持etcしてはいけない」的な言及のされ方もよくしている印象ではありますが、少なくともあの映画単体だけで見ればそのようなこともないとは思います(『フィクションとはいえ殺人を行った人物に同情してはいけない』とかクソ真面目ちゃんか?)

「誰もがジョーカーになり得る」?

 この映画に対する言及としてよく言われるこういったフレーズについて。実際に見てきた感想として俺は「誰もがなり得るのは『ジョーカー』だけではない」と思っています。

 劇中においてアーサーをジョーカーにしたのは誰か(何か)?といえば、それは(あからさまに悪意のあったであろう人物はいたものの)誰か特定の人物だけに全責任を被せられるはずもないと言わざるを得ないほど多くの不幸な巡り合わせの結果なのでしょうし、貧困層の運動の象徴として「殺人ピエロ/ジョーカーという偶像」を祭り上げる群衆にもまたアーサーとしての彼の苦しみなど本質的には理解できようはずもない。
そういった意味で「誰もがジョーカーになり得る」だけではなく、それと同時に「作中においてジョーカーを生み出す要因となった人々の中の誰か」「自分たちの理念のために何らかの『象徴』を祭り上げつつも、その象徴とされた『人間』のことなど理解しえない群衆」にもなり得るのでしょう。

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