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何者かではなく誰かになりたかったのではないか

 今年も半分を過ぎたというのにまともに絵を描けていないことがつらく感じています。
そんな中で、今まで創作的な分野において何らかの成功をしている他者を見て思っていたことは実は「何者かになりたい」という話ですらなく、その「誰か」になりたい、自分がその誰かの立ち位置や成功を全部持っていけたらよかったという(下衆な)思考に過ぎないのではないかと考えることがありました。
要は漠然とした「何者かになる」ことや「成功」に関する話を名誉欲ベースで捉えていて、名誉欲が満たせるのであれば「自分が何者かになる」のも「既に何者かである者の立ち位置を奪い取る」のも同じではないか?と思っていたわけです。

 そもそも何故ここまで名誉欲ベースの思考をするようになったのかといえば間違いなく名誉などという言葉とは到底無縁であった幼少時や学生時代、あるいは既に強烈な個性を持った「何者か」が跋扈していた2000年代インターネットの記憶は絡んでいるのでしょうし、そうした積み重ねから暗い青春時代への復讐と人生の一発逆転に固執するような人格が生まれるのはごく自然でしょう(自然なんだよ)。

 こういった思考が強まってくると(ただでさえ動いていない)手が(さらに)動きにくくなることについても、単純に鬱状態であるからというよりは俺自身の根本的な性格の問題ではないか?とも考えたり、
さらに言うなら俺は高校数学レベル以上の計算がどうやっても致命的にできないという状態でなお「勉強」を強いられ、成績が悪いと怒鳴り散らされるような環境が嫌で絵の専門に行ったようなものだし、
自身の障害について認識し現状に至る過程にも真っ当な社会人にならなくていい逃げ道を探すような魂胆が無かったわけでもなく、俺の絵とか人生とかに対する態度など所詮その程度のものでしかなかったのではないか、と改めて思うことが多くなってきています。
だからといって今更「真っ当」に生きようとする気などさらさら無いのですが。

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