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「幸せ」の見つけ方がヘタな人たち

人生の目的はなにかと問われたら、「幸せに生きるため」とか「幸せな時間を過ごすため」みたいに、割と『幸せ』を求める回答をする人は少なくないと思う。

ただみんな、『幸せ』の見つけ方がとてもヘタだなと思う。


幸せ=お金やモノが潤沢であること、では必ずしもない

2011年に公開された「幸せの経済学」というドキュメンタリー映画がある。30年前まで外国人立ち入り禁止区域だったヒマラヤの辺境「ラダック」を具体例として挙げ、ローカリゼーションの重要性を訴える内容だ。

辺境の地で近代文化のかけらもない「ラダック」という土地に住む人々は、元々は目を輝かせて暮らしていた。そう、まさに「幸せ」な状態で。ブータンみたいに幸福度が高い場所、ってイメージするとわかりやすい。

そんな「ラダック」に、欧米のファッション・食べ物、情報などが普及すると、そこに住む人々は目の輝きを失い、争いや妬みが起こる場所になっていった。物質的には明らかに満たされたはずなのに、むしろ不幸になる人が増えてわけだ。

当時、この映画をみて、僕は初めて「幸せはお金やモノでは満たされない」ということを腹の底で理解した。


「幸せ」は自分の中に“既に”あるという真実

「幸せの経済学」から学んだことは、お金やモノが増えることが必ずしも幸せに直結することではないということ。

じゃあ何が幸せにつながるのか。

健康に暮らすこと、信頼できる友達や家族がいること、好きなことをたくさんやっていること、そしてもちろんお金をたくさん稼ぐことも。

要は「幸せ」の定義は人によって様々。今までは画一的に「幸せ」にはお金やモノが必要、と思い込んでいただけで、ここらでその思い込みを見直す必要があるのだと思う。

多くの人は「幸せ」を手にできていない、と勘違いしているのは、お金やモノが不足しているから、と思い込み、自分の外の世界に幸せを求めやすいものだ。

でも、実はそうではないことが大半。先ほどのラダックの例のように、お金や情報、物資が潤沢になったところで、むしろ幸福度が下がるケースがある。

つまり、幸せを見つけるには、足し算ではなく引き算で見つけるのではないかと思う。


散らかった部屋で探し物をするようなもの

例えば、大切アクセサリーを無くしてしまった時。散らかった部屋の中をいくら探しても見つからず、家の外まで必死にを探してしまったりする。

でも、諦めて家に戻った瞬間、ポケットにそのアクセサリーが入っているのに気づく、みたいなことは誰しも経験があると思う。

多分、幸せも同じなんじゃないかなと思う。

実は、「幸せ」は既に自分の中にあるけれども、必死に外を探しているわけで、そりゃいつまでたっても見つからないわけだ。そう、自分という部屋がとっ散らかってるだけなんだ。

「足るを知る」という、僕が好きな言葉がある。

今の自分が満ち足りていることを知り、過剰を求めないという意味のこの言葉。「足るを知る」ことは自分の部屋の整理みたいなもの。自分の部屋を整理整頓して、どこに何があるか、すぐにわかるようになると、自分の探している「幸せ」をいつでも見つけられるようになる。

自分の幸せの正体がわかると、「あ、あとこれが足りないな」とか「なんだ、もう十分じゃん」ってシンプルに答えがわかって、行動もシンプルになるんじゃないかな。

そう思ったりする。


僕たちは、お金やモノを得ることで幸せになるという「資本主義」的な思想のもと、長いこと暮らしてきた。この思想は、とにかく部屋が取っ散らかる。

この部屋を片付けられない人が、「幸せの見つけ方がヘタな人たち」なんだと思う。


浅見 ゆたか

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