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羽の生えた日 (小説/約4000字)

 洗濯物を畳んでいるときに奇妙な感覚に見舞われた。背中が妙にむずむずとかゆい。皮膚の内側がザワザワする。骨に鈍い痛みがあった。まさか、妙な病気だろうか? それとも寝るときの姿勢が悪くて寝違えてしまったのだろうか。寝違え? 背中を? 不思議に思いながらも肩甲骨をぐりぐりと動かしていると、ぷち、と皮膚のはじける音がした。え、と思っている間にみしみし、と骨が鳴り、背中にずしりと重みを感じた。強烈な違和感に、シャツの首元から手を差し込み、肩甲骨のあたりをまさぐってみると、なにかふかふかしたものに触れる。指先でふかふかをつまみ引っ張り上げた。

 

 肌が引っ張られる感覚とともに、ぷち、という音がして何かが剥がれた。
 手元を見る。羽だ。真っ白いふわふわした羽毛

 次の瞬間、みし、と骨が大きく軋み、シャツが背中から引っ張り上げられるように感じた。布の下になにかが大きく膨らんでいる。う、と喉の奥で空気が詰まった。恐る恐るでっぱりに触れる。硬い。
 苦しくなりシャツを脱ぎ捨てた。作業をほっぽりだして姿見の前に行く。
 だ。

 羽が生えた

 肩甲骨のあたりから大きく白い羽が飛び出していた。背中を丸める動作をすると、連動して羽も動く。どうしよう、夕方からパートのシフト入れちゃってるのに。出勤できない、着ていく服がないし制服も入らない。私は恐る恐る肩越しに羽を撫でた。ふわふわとした手触りと、その下にある私の骨。おそらくこれは骨。
 あまりに質量を伴った現実感のある感触に気が遠のきそうになった。

□■□■□■□■

 とりあえずシャツが窮屈だったので、背中の開いているデザインのタンクトップに着替えた。羽は肩を動かそうと意識すると、勝手に動いた。胸の骨を閉じると開き、開くと羽が閉じる。肩から飛び出た羽は徐々に大きくなり、立ち上がっても尾羽が地面まで届くようになった。重たくて家事どころではない。
 ベランダに出ると空がやけに青く見えた。風か強く吹いている。大きなマンションの向かいにはビル群が立ち並んでいて、上昇気流が生まれやすい。不思議なことに、呼ばれているように感じた。握りしめていた手すりに足を掛ける。普段は絶対しないような、手すりに腰を掛けて足をぶらつかせる動作をする。秋の風は冷たくて乾いていた。陽の当たるベランダで火照った頬に心地が良い。

 ごう、と風が吹いた。髪がさらさらと散らばる。長く伸ばした髪の毛、太陽の明かりに晒され、毛先がずいぶん傷んで見えた。羽が風を感じる。私は手すりの上に立ち上がって空を見上げた。また風が強く吹いた。体の下から押し上げるように吹き上がる風に体重を乗せる。胃の下の方がぎゅっと締め付けられる感じがした。

 風に覆いかぶさるように体を傾ける。羽を思い切り広げると押される感じがした。見えない空気の層に体ごと持ち上げられる。羽の角度を少し変えると体の向きが変わる。
 あ、飛んでる。そう思った。
 次の瞬間には私の体はふわりと浮き上がって、住んでいるマンションが足の下に見えた。しまった、素足だ。色の落ちかけた濃いブラウンのネイルが寒そうに見えた。

 飛んでいるというよりは、風に押されているという感じがした。不思議なことに風の吹いている方向がわかる。下に向かう空気の流れと、そのすぐそばの空気が押し上げられて上に巻き上がっていくのがわかる。きっと暖かい空気と冷たい空気が互いに押し合っているのだ。
 少し体の角度を変えるだけで、速度や方向が変わった。不思議と恐怖心がない。楽しかった。
 少し進むとにぎやかな音楽が聞こえてきた。ショッピングモールの駐車場でイベントをしている。風船がひとつふたつと昇ってくるのが見えた。赤い色のひとつを手に取る。子供が小さいころはよく、ヘリウム風船を欲しがったものだった。今はもう見向きもしない。一緒に買い物へ行ってくれることすらないけれど。
 
 一度見知らぬビルの上に降り立つ。わかったことがあって、風に乗って上昇や下降はできるけれど、自分で羽ばたいて空へ登っていくだけの馬力はないこと、方向はコントロールできても、大体の動きは風向きに依存していること。
 空を飛ぶのは心地がいい。走っているときとはまた別の爽快感があった。普段はもやがかかったようにぼんやりしている頭が、空を昇っていくときだけははっきりしている。
 私はもう一度滑空して、高度を高く昇っていく。風が耳に直接語り掛けてくる。どこを向いて飛ぶべきか、どこへ行くべきか。全身が空気と一体になって動いている。この体のすみずみまで自分のものだったことを思い出して、嬉しくなる。

 しばらく行くとマンションのベランダから身を乗り出している男の子が見えた。雑誌を重ねて足場にして、手すりから大きく身を乗り出している。自分の子どもと同じくらいの年齢だ。あそこに行けるだろうか。羽を傾ける。なるほど、頭が重いので、重心を移動すると勝手にそっちに向かうことができる。欠点はホバリングができないこと。
 私は見知らぬ人の部屋のベランダに舞い降りた。男の子が目を丸くして私を見る。動きが完全に静止していた。

「はい、これあげる」

 手に持っていた風船を差し出す。男の子の手がためらいがちにこちらに伸びた。赤い風船が風に打たれて弾かれたように飛び跳ねている。私は手すりに腰かけた。

「乗る?」

 背中を指さした。よくわからないがタンデム飛行に憧れていたのだ。ロデオと言えばタンデム。タンデムと言えばビート。なのだ。

 男の子が私の背中におぶさった。子供をおぶるのなんていつぶりのことだろう。小さなころはよくおんぶや抱っこをしていたんだけど。少年の体は思ったよりもずっと軽かった。見た目は大きくてもまだ子どもだ、そう思う。風が起こるのを待って、飛び乗る。

 ふわりと体が浮き上がった。不思議、

 二人分だからもしかすると飛べないかも、落下するかも。と思っていたので驚く。男の子ののどがひゅっと音を立てるのがわかった。

「怖い?」
「怖い。死んだと思った」

 私は笑う。

「気持ちいいよね。町の空気を独り占めしてるって感じで」
「おばさん、この羽どうしたの?」
「わからない。生えてきたの。急に」
「いいな、俺も欲しい。生えるかな」
「生えたらいいね。病気だったら、伝染るかも。新しい奇病」
「鳥人間病だ」

 多くの人が羽を持ったら、きっと空にも交通整備が必要だな、と思った。

「子供の頃、風船たくさん持ったら空を飛べるんじゃないかと思った」
「うちの子どもも同じような事言ってたな」
「おばさんの子ども? いくつ?」
「十六歳」
「ひとつ上だ。男?」
「そう。男の子」

 二人分の体重を運んでいるからだろうか。だんだんと疲れてきた。川沿いの大きな木が目について、そこに降り立った。

「俺こんなでかい木に登ったの、はじめて」
「私も。あ~、疲れた」
「毎日空を飛んでるの?」
「今日初めて。だって羽が生えてきたのって、つい数時間前のことだから」
「いいなぁ。見晴らしがいい。俺の通ってる中学校が見える」

 鳥はいつもこんな風にこの町を見てるのかなぁ。と男の子が言った。中学校の制服だろうか、カッターシャツと黒いズボンのままだ。

「夢だったんだ、空を飛ぶの。叶えてくれてありがとうね」

 男の子が言った。私は曖昧に笑う。

「あ、こんな時間。帰らなきゃ。子供が帰ってきちゃう」
「そうだね、俺も家に帰る」

 男の子は器用に枝から枝へと飛び移り、するすると木を降りていく。途中で風船が男の子の手を離れ、私の方へ飛んできた。とっさに捕まえる。

「送るよ! はだしでしょ」

 白い靴下が汚れていくのが見えた。申し訳なくて声を掛ける。

「大丈夫! 道わかるから。俺いつもこの川沿いの道使って登校してる」

「そうじゃなくて」

 追いかけようとするのだけど、風船が邪魔で思うように動けない。

「またね」

 あっという間に地上に降りた男の子が、私に向かって体全体で手を振る。仕方なく私も手を振り返した。土手沿いの道を上っていく。川の太陽が傾いていた。帰らなくちゃ、と心臓の鼓動が早まる。大丈夫、見慣れた町だ。いつも暮らしている町。木を飛び降りて宙を滑る。川の上は障害物が何もなくて飛びやすかった。

 でもおかしい、高度があまり上がらない。勢いが出ない。昼間よりも体が重く感じられた。途中でどんどん高さが下がってしまう。しまいには、私はふらふらと地面に落ちてしまった。重力がこんなにも邪魔に感じられたことはなかった。

 ずるり

 奇妙な感覚がして、ふと背中が軽くなる。振り返ると一対の巨大な翼が地面に横たわっているのだった。慌ててかき集めても、手のひらから羽がはらはらと抜け落ちてゆく。秋風が露出した肩や腕に当たって、冷たかった。

□■□■□■□■

「ただいま」

 はだしで歩いたのでずいぶんと足が痛んだ。玄関には息子の靴が乱暴に脱ぎ捨ててある。

「おかえりー」

 リビングの方から声だけが聞こえる。きっとまたゲームをやっているのだろう。私はお風呂場で足の裏を丁寧に洗い、傷を消毒して、絆創膏を貼った。血が少しでている。でも深い傷ではなさそうだ。

「なにそれ、風船?」

 息子がやっと玄関に浮かんでいる風船に気がついたようだ。手放す機会を見失って家まで持って帰ってきてしまった。

「そう。風船。ちょっと買い物に行ってて」
「新装開店のイベント? 行ったんだ、いいなぁ。お笑い芸人のあの人、見たかったな。学校サボって行ったらよかった」
「だめ」

 冗談だよ、と肩に触れられる。私がこの子を背負うことなんてきっともう二度とないのだろう、とふと思う。もう少し羽があったら、どうだろう、乗ってくれただろうか。わからない。

「にしてもなにその格好。寒いのに、馬鹿じゃない?」 
「これはその、事情があって、つまりその、ジムの帰りだから」
「じゃあとっとと着替えたら」
「言われなくても着替える」

 服に袖を通すと、なんの抵抗もなく着れてしまったので、本当に無くなってしまったんだなぁと寂しくなる。そんなことよりも、早く夕飯の支度をして出かける準備をしないと。そういえばあの子は宿題をしたのだろうか? そう思い子供の部屋を覗く。

「ねえ、塾のしゅくだ――――」

 扉の向こうには誰もいなかった。ただ、窓が開け放たれてカーテンがたなびいている。慌てて窓枠に駆け寄った。地面を見下ろしても誰もいない。ふと上を見ると、ひらり、ひらりと大きな羽が落ちてくるのが見えた。

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