他人についたものでも、クソコメを見るとイライラする

自分宛でなくても、クソコメ、クソリプの類を見ると、毎回ウヘェ、という気分になる。
交流花盛り、SNS隆盛のこのご時世では至極やりづらい気質だ。

定義はまちまちだが、クソコメというやつを私はおおむね、「発信者の意見や作品に批判的かつ、まっとうな批評としての体裁をなしていないもの」と考えている。
まあ、仮にまともな批評であったとしてもコメント欄やリプライで乞われもしない自説を長々とぶつような真似はクソだと思うけれど。

私にはクソコメをつけていく人の気持ちが全くわからない。
たまに「嫌なら見るな」と言ってしまう発信者の人を見かけるが、そう言いたくなるのも仕方ないくらい、双方に益のない行為だ。
コメントをつけたからってクソコメつけた人の思い通りになった人っている?
ブロックするか筆を折るかヒートアップするか、やり合えばろくなことになってない。
「あなたのご高説が正しいのでやっぱり私は意見を改めます!」と言われないのなら、クソコメはやはりクソでしかないのだ。

クソコメ、アンチが湧いて初めていっぱしの作家、なんて言葉も見かけるが、どうかお気に入りの作家さんにそんなものが付きませんように、筆を折ってしまいませんように、と祈っている。
望んでもいない批評コメントに崩折れてしまう創り手がとにかく減ってほしい。私自身、クソコメの類はもちろん、意図がよくわからないコメントすら苦手だ。
そんなものに煩わされるくらいなら、「無言の肯定」をもらって元気になってほしい。そう思って作品をブックマークしたり、いいねを押したりしている。
コメント欄は時に、創り手の心を荒ませる。

暴論を言うと、クソコメは作品を、発信者を穢れさせる行為だ。

クソコメを付ける人は、議論したいつもりなのかもしれない。
誤りを正したいのかもしれない。
善意なのかもしれない。
しかしそれなら、引用するなどして自分の庭(たとえばブログとか)でやったらどうだ?と思ってしまう。

あえてコメント欄でそれをやるというのは、「お客さん」の立場から発信者を一方的に殴りつけているにすぎない。
わかるよ。
リスクを犯さずに人を殴れるって気持ちいいもんね。
だから発信者はクソコメに心が折れる。
発信者としてのリスクを負うつもりもないくせに、人を否定することだけは容赦がない。
非道としか言いようがない。

発信者が議論をしたくてそれを書いたかどうかなんて分からないわけだし、学会の論文でもないのだから議論に応じる義務すらないのに。
それでもクソコメは投下される。

クソコメの多くは「言ってやったぜ(反論があるならしてみろよ)」的な煽り感を伴うことが多い。
しかし彼らは、自分で主張をまとめ上げるだけの力がない。
発信者の言うことがおかしいと思うのなら、「ではなぜおかしいと思ったのか?」を付け加えて「自分はこう考える」と発信者になればいいだけのことだ。
それができないから、クソコメをつけて、発信者はアホだと印象付けようとしている。(あるいは、発信者のアラを見つけ出せる俺は賢いのだと思いたいのかもしれない)

気に入らない発信者に粘着的なコメントを残して、相手の心をささくれ立たせるその行為の爪痕を見るたび、私はひどく苛立つのだ。


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