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断服式前のタイミングでDIOR展に行って考えたこと

こんにちは、アヅマです。
あきやあさみさんが提唱する自問自答ファッションに心を撃ち抜かれ、今日も元気に自問自答の日々を送っています💪

SKIP!SKIP!RADIOでのDIOR展レポートが素敵すぎて、遅ればせながら私アヅマもDIOR展に馳せ参じました🏃

5月28日まで開催中のようです!予約フォームは大体いつ見ても満席なのですが、たま~~~~~に前日・当日キャンセルが発生しているので、ちょくちょくチェックしていると予約できるかもしれません✊
私は毎日ネチネチ予約ページをストーカーして予約しました👀

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まず圧巻だったのが、〈The Dior Ball〉の展示です。

"移り行く空の様子を投影した”プロジェクションマッピングとのことだったのですが、上から下へとだんだん空の色が変わりゆく様子は、まるで綺麗な小川のようにも見えました。
ちょうど直近の幻冬舎講演会で「Twitterはガンジス川」というパンチラインがあり、「川」へ思いを馳せることが多かった昨今。
これは………

今更言うまでもないことですが、ガンジス川は元々1つしかありません

私が死んだらあの川に流してくれえっ!と叫びたくなるくらい、圧巻の風景でした。
また、同じ1着であっても、背景によってこちらに見せる表情が全然違うのに驚きました。当初、あまりにも印象が違いすぎて「えっ、服も総入替したん?!」と思ってしまったほどです👀
あまりにも多彩…!!!

そしてさらに私の心を掴んだのが、《トワルの部屋》の展示です。

しろ~い!!!
真上までず~っと服、服、服

素材とシルエットの多彩さはもちろんですが、その多彩さがただの多彩さではないんです。「た~くさんパターンを考えたよ!見て見て!」ではなく、一着一着のシルエットや素材選びにきちんと意味があるのが分かります。それだけでなく、それぞれが「ああ、素敵……!💘✨」レベルまで昇華されているのです。

服って色んなアプローチができるよね!とはよく言いますが、人間の身体の形って大小や長短はあれど、大体同じな訳じゃないですか。
頭の上から手が生えてたり、脚が12本あったりとかは無くて、大体同じ形のものに対して着せるものなのに、しかも白一色なのに、どうしてあんなに多彩なスタイルやアプローチが見せられるんでしょうか…👏✨

DIORの服を直接着たわけではない、バッグを買ったわけではない、ただ見ただけなのに、なんというか…心の中に細かいラメを振りかけてもらった感じで、帰り道もずっとキラキラが続いている感じでした。

DIOR展に展示されていた衣服はどれも、人間の体の形に沿って裁断され、人体に着用されることを前提に作られているという点で「服」ではありました。が、あまりにも綺麗で、素敵すぎて、「これはもはや美術品だな…」「たとえ今後誰に着られることがなくても、存在しているだけで十分だな」と思うほどの迫力がありました。

----------------キリトリ線----------------

☝と、ここまではよくある感想文だと思うのですが、改めて考えてみたときに、「たとえ今後誰に着られることがなくても、存在しているだけで十分だな」って、自分の感想ながら一体全体何なんだろう…?と引っかかりを覚えました。

この感想って、「着ないでしまっておくなんてお洋服が可哀想!洋服って着るからこそ意味あるんじゃん!(=着ないお洋服は手元に置いておく意味がない)」という前提がなければ出てこない感想ですよね。すごい乱暴な言い方だけども…

この前提ってなんとな~く説得力があるように聞こえてしまうんですが、例えば「可愛い小皿をアクセサリートレイにしてます」に対して「食べ物を載せないなんて小皿が可哀想!」とか、「靴箱の裏にタオルハンガーをかけて傘立てにしてます」に対して「タオルをかけないなんてタオルハンガーが可哀想!」とか、あんまり言われないじゃないですか。服も小皿もタオルハンガーも同じ無機物なのに。

もしいたらちょっと友達にはなってみたい

多分「身体に纏う」という用途が、「食べ物を載せる」とか「タオルを掛ける」に比べて意味が強すぎるんですよね。
だからこそ、服(特にリアルクローズ)に対してだけ「着ないでしまっておくなんてお洋服が可哀想!」という謎の言説が蔓延ることになるんだと思うんですけど。でも本来であれば、「着る」と「見て愛でる(他)」の間には何の優劣もないはず…!

DIORの服を直接着たわけではない、バッグを買ったわけではない、ただ見ただけなのに、なんというか…心の中に細かいラメを振りかけてもらった感じで、帰り道もずっとキラキラが続いている感じでした。

思い返そう、こう書いている…!

「毎日着る」だけが服の愛し方ではないのだなあ。
服の愛し方は人それぞれでいいんだなあ。
(見ただけで心にラメが降っちゃうこともあるわけだし)

思い返せば、あきやさんもこう書いていらっしゃいます。

※記事の中には「着ない服は手放そう」「着ている回数=愛の数値」という話もありますが、最後までよく読むと多様な愛し方が認められている(と私は解釈しています)。

「着られる数」じゃないんですよ、「愛せる数」だけ持てばいいんですよ…!✊✨

さて、私がこの展示を見たのは4月末、奇しくも「断服式」前のタイミングです。
断服式を行う中で私が毎度経験するのが、「この服可愛くて大好きだけど、もう着ない/着られないんだよな…」という逡巡です。
可愛くて、毎日眺めているけど着ない服とか…もうボロボロすぎて履かないんだけど、思い出がありすぎて捨てられない靴とか…

靴底が外側から減る、ガニ股代表です
履き口もペソペソですわい

私はこういったアイテムと向き合う度、「これって手放した方がいいの…?」「毎日着てあげられなくて申し訳ないな…」と罪悪感を覚えていました。
多分ミニマリスト思考の方であれば、即ゴミ箱行きになるアイテムだと思います🕳️

でもいちばん重要なのは、「着られるか」じゃなくて「愛せるか」なんですよね。(もちろん着られることも重要だけど…!)
今回の断服式、「もう着られないな」で思考停止せずに、「このアイテムに対して、私はまだ≪好き❣≫と言ってあげられるか…?」と自問自答し、じっくり向き合って1着1着の要否を決めたいと思います✊✨
今このタイミングで行けて、大事なことを思い返せてよかった!!!✌

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